論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「君子謀道不謀食。耕也餒在其中矣。學也祿在其中矣。君子憂道不憂貧*。」
校訂
宮崎本
武内本
清家本により、文末に也の字を補う。
定州竹簡論語
[子曰:「君]子謀道不謀食。耕也,飢a在其中○;學矣,食b在445其中○。君子憂道不[憂貧]。」446
- 飢、今本作”餒”。
- 食、今本作”祿”。
→子曰、「君子謀道不謀食。耕也飢在其中矣。學矣食在其中矣。君子憂道不憂貧。」
復元白文(論語時代での表記)
耕
飢
※貧→勻。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。謀の字の語法に疑問がある。本章は秦帝国以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、君子は道を謀りて食を謀らざれ。耕す也飢其の中に在り矣。學び矣らば食其の中に在り矣。君子は道を憂へて貧しきを憂へざれ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「諸君は方法を思いめぐらせ、生活を思いめぐらすな。耕しても飢えることがきっとあるだろう。学べばきっと食べ物が得られるだろう。諸君は方法を心配しても、貧困は心配するな。」
意訳
どうやって役人としての技能を習得するか、それを考えろ。仕官すれば生活の心配をする必要は無いぞ。田仕事しても饑饉に出くわすことはあるが、学べば仕官して食い扶持は確保できる。だから役人の技能が身に付かないのを心配し、貧困は心配するな。
従来訳
先師がいわれた。
「君子が学問をするのは道のためであって食うためではない。食うことを目的として田を耕す人でも、時には饑えることもあるし、食うことを目的としないで学問をしていても、祿がおのずからそれに伴って来ることもある。とにかく、君子にとっては、食うことは問題ではない。君子はただ道の修まらないのを憂えて、決して食の乏しきを憂えないのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子謀求掌握治國之道而不謀求食物。耕田,有時還會挨餓;學道,卻能拿奉祿。君子衹擔心沒學好道,不擔心貧窮。」
孔子が言った。「君子は国を治める法を会得するよう企むが、食物を得ようとは企まない。田を耕しても、時には饑饉に遭う。政治の道を学べば、それでも俸禄は得られる。君子はひたすら学問を好むよう心を配るべきで、貧窮を心配しない。」
論語:語釈
君子
(金文)
論語の本章では呼びかけの言葉の”諸君”。孔子が君子の心得として一般論を説いたとも考えられるが、その場合は為政者階級である”貴族”。しかし論語は弟子による孔子の発言メモの集大成だから、”諸君”の方がよいように思う。
また孔子没後一世紀の孟子は、「君子」に”教養有る人格者”という別定義を行ったが、そうなった社会的背景について、詳細は論語語釈「君子」を参照。
謀(ボウ)
(金文)
論語の本章では、”たくらむ”。初出は西周早期の金文で、ごんべんが付いていない。「謀反」の「ム」の読みは呉音。原義は諸説あってはっきりしないが、初出の金文は”たくらむ”と解釈されており、論語の時代までには否定辞の語義が加わった。だが”ウメ”・”なにがし”の語義は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「謀」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”やり方”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
ここでは将来仕官する弟子に対してのお説教だから、役人・為政者としての道、すなわち行政の技術一般のこと。必ずしも陰謀を意味するのではなく、素早い行政処理や、善政を実施する方策をも含む。
行政官の処理能力の高さを、孔子は必須の技能として弟子に求めた。弟子の中で行政に長けると評した子路について、孔子は以下のように言っている。
そして自分の行政能力についてもこう述べた。
子路について言った「無宿諾」(諾を宿むる無し)=”受付印を押したらその日のうちに決済する”ことが、行政官には必要と孔子は言っているのであり、それは民にとっての善政でもあった。待たされると生活に差し支えるし、不安を抱えたまま日を送らねばならない。
そしてしばしば行政の宵越しは、決済順についてワイロの温床となる。貧しい庶民にとってたまったものではなかった。加えて孔子一門が既存の政治勢力の中に割り込むには、まず有能であることが必要で、事務処理能力のない者は、孔子にとっても困った弟子だったに違いない。
論語の本章を偽作した帝国の儒者にとっても事情は同じで、官界が儒者に依って独占されるのは宋代を待たねばならず、前漢までは儒家のみが帝国の公認イデオロギーではなかった。武帝によるいわゆる「儒教の国教化」は武帝個人の幼少時トラウマ脱出の一環に過ぎず、いわば専制君主の趣味だった。事実上の次代宣帝は、「儒者どもという役立たず」と公言している。
従って前漢までの儒者は、まだ官界でのし上がらねばならない存在であり、無能に務まる商売ではなかった。
食
(金文)
論語の本章では、”食糧”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意文字で、「亼(あつめて、ふたをする)+穀物を盛ったさま」をあわせたもの。容器に入れて手を加え、柔らかくしてたべることを意味する、という。詳細は論語語釈「食」を参照。
君子謀道不謀食
上掲従来訳や、現代中国での解釈が、”道徳実現を願い収入を願わない”と解するのは、下掲のように儒者の高慢ちき全盛時代の新注を猿真似したもので、論語の本章を偽作した漢儒の意図とは違っている。漢儒は”役人になれば饑饉があっても食いはぐれない”と、独裁国家の官僚らしい冷血を説いているのであり、儒教道徳の実現うんぬんはこれっぽちも思わなかった。
つまり饑饉があっても権力があれば、先に飢え死にするのは耕している農民であり、税を強奪する立場の役人が飢えるのはその後で、非常に得ではないか、と説いている。このあたり古代エジプトの「書記の勧め」同様、役人の考える事はどこも変わらないらしい。
耕
(金文大篆)
論語の本章では”耕す・耕作する”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音に語義を共有する漢字は無い。『大漢和辞典』で同音同訓に論語の時代に遡れる漢字は無い。部品耒・井に”たがやす”の語釈は『大漢和辞典』に無い。つまり論語時代の置換候補は無い。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、井(ケイ)は、形や型の原字で、四角いわくの形を描いた字。もと丼(セイ)(いど)とは別字だが、のち、混用された。耕は「耒(すき)+(音符)井(ケイ)」で、すきで畑地に、縦横のすじを入れて、四角く区切ること、という。詳細は論語語釈「耕」を参照。
餒(ダイ)→飢
(金文大篆)
論語の本章では、”飢えること”。本章以外では後世の創作と断じうる論語郷党篇8に登場。初出は不明。カールグレン上古音はnwər(上)。同音は存在しない。部品の食・妥に”うえる”の語釈は『大漢和辞典』に無い。つまり論語時代の置換候補は無い。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。「食+(音符)妥(タ)(上から下へ垂れる)」。食物が足りず、からだがぐったりと垂れること、という。詳細は論語語釈「餒」を参照。
定州竹簡論語の「飢」の初出は秦の隷書。論語の時代に存在しない。同音は存在しない。『大漢和辞典』で同訓同音に論語の時代に遡る漢字は無い。部品の食・几(幾)のうち、幾には”かすか・尽きる”の語釈はあるものの、いずれも『大漢和辞典』に”飢える”の語釈は無い。つまり論語時代の置換候補は無い。
『学研漢和大字典』によると形声文字で、「食+(音符)几」、という。詳細は論語語釈「飢」を参照。
論語の時代に”飢える”を意味した言葉としては、論語語釈「饉」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
耕也餒在其中矣(餒→飢)
論語の本章では、”耕しても必ず饑饉に遭う”。
このまま読み下すと「耕す也餒其の中に在り矣」で、”耕すときっと飢えることになるに違いない。」
田仕事して飢えるのはおかしいということで、従来の論語本では、宮崎本は論語の本章の「餒」(ダイ・飢える)は「餧」(イ・めし)の誤りとし、以下のように言う。
京都大学教授・宮崎市定
耕すや、餧其の中に在り…農夫が耕作すれば自然に食物の収穫が得られる…。
餒と餧は甚だ字形が似ている上に、餒と餧とに共通して飢餓という意味がある。そこで筆写の際に誤ったことが十分考えられる。但し餧には飯の意味があるが、餒の方にはない。従来はあくまで餒に固執したために、耕しても餒えることがある、と解し、この文章の意味が途中でねじれてしまい、下文とよくつながらなかった。(『論語の新研究』)
確かに宮崎博士が置き換えようとした「餧」にも”飢える”の語釈はある。日本語音も共に「ダイ」。
宮崎本原書の別ページにさらに詳細な論考があるのだが、引用はここまでに止める。いずれにせよこの置換は宮崎博士の「だろう」に基づくもので、何ら物証が有るわけではない。
ここで中国儒者の言い分を聞いてみる。
古注
註鄭𤣥曰餒餓也言人雖念耕而與不學故飢餓學則得祿雖不耕而不飢餓勸人學也
鄭玄「餒は飢えである。人は耕そうとしても学問がなければ飢えることがある。しかし学問があれば給料が貰えるから、耕さなくとも飢えることはない。そう言って学問を勧めたのである。」(『論語集解義疏』)
うはー。儒者の高慢ちきプンプン。だが本章が創作された、おそらく前漢の解釈に時間的には最も近い。
新注
餒,奴罪反。耕所以謀食,而未必得食。學所以謀道,而祿在其中。然其學也,憂不得乎道而已;非為憂貧之故,而欲為是以得祿也。尹氏曰:「君子治其本而不卹其末,豈以在外者為憂樂哉?」
餒の音は、ドとザイの組み合わせダイである。耕すのは食物を得るためだが、それで必ず食えるわけではない。学ぶのは善政を行うためだから、給料が貰えるのである。だから学ぶ上での心配とは、ひたすらに善政の実行であって、自分の収入ではない。だが我欲が、それを原因に高禄を得たがるよう仕向けるのである。
尹焞「君子は自分の基本を作り上げて自分の枝葉を間に合わせるのだ。自分以外の事情でいちいち喜んだり落ち込んだりしない。」
(『論語集注』)
古注を猿真似した挙げ句に鬱なお説教をつけ加えただけ。何の参考にもならない。
祿(禄)
(金文)
論語の本章では”給料・俸禄”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、彔(ロク)は、刀でぽろぽろと竹や木を削るさまを描いた象形文字。小片が続いてこぼれおちるの意を含む。剥(ハク)の原字。祿は「示(祭壇)+〔音符〕彔」で、神からのおこぼれ、おかみの手からこぼれおちた扶持米(フチマイ)などの意、という。詳細は論語語釈「禄」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
學(学)也祿(禄)在其中矣/也→矣・祿→食
「也」(金文)
論語の本章では、”学べばきっと俸給が貰える”。
ここでの「也」は「A也B」の形で、”AについてはBだ”の意味。『学研漢和大字典』によると、「也」の語法の一つに「~の方法は・~の時には、と訳す。時間・空間・事物のある一部分を提示して強調する意を示す」とある。詳細は論語語釈「也」を参照。
定州竹簡論語では也→矣、祿→食となっている。「矣」に也と同様の用法が前漢時代にあったと想定したいが、辞書的にはそれを説いていないので、今は通例通り断定・完了の意を表すと解した。
祿→食は、話柄として漠然とした”俸給”ではなく、極めて具体的な”食べ物”を扱ったとするところに凄みがある。古代ゆえに、餓死は他人事では無かったのだ。
憂(ユウ)
(金文)
論語の本章では”うれう”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。
貧
(金文大篆)
論語の本章では”貧困”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音に語義を共有する漢字は無い。近音の勻に”すくない”の語釈があるが、音通とは断じかねる。詳細は論語語釈「貧」を参照。
論語:付記
論語の本章は、饑饉が来てもまず飢えるのは耕している当人の農民=大多数の庶民であり、税をはたり取って食う立場の役人が飢えるのは、その後であることを示している。中国における権力の無慈悲と、役人という生物の冷血をここに見て取ることが出来る。
それをオトツイの方角に曲解し、庶民には耳障りよく、支配階層へはありもしないメルヘンを宣伝するように書き換えたのは、上掲の通り新注をまとめた朱子で、朱子は役人としては大して出世しなかったから、この書き換えは世間師興行のためでもある。
だが明清帝国では、これが帝国の公認解釈として勅許を得た。清の康煕帝の時代、孝行者の隠者として帝自ら世間に宣伝した焦袁熹が、本章についてこんな事を書いている。
若使謀道謀食了不相涉則謀道之君子不須以謀食疑之惟夫謀食莫如耕而餒在其中竟有時不得食也謀道莫如學而祿在其中可以兼得其食也然而君子之心則憂道不憂貧也曷嘗為祿而學乎不然則以道而謀食所謂修天爵以要人爵者耳其不流為小人之歸者幾希
もし「謀道」=道の実現を悩むことで食にありつくことを求めたなら、それはうまくいかない。それゆえに道を悩む君子は、食にありつくことや、その機会を必ずしも求めはしないのだ。
考えてみれば、食を求めて自ら耕しもしないなら、飢えて当たり前であり、つまりは飢える時が必ずやって来る。道を求めて自ら学ばなくとも、俸禄はついて回るから、道も食も共に得られる。だから君子は、道を憂いても貧乏を憂いないのだ。どうして食のために学んだりしようか?
仮に俸禄がついて回らないにしても、道を求めることで食を求めるのは、孟子が言った「天爵」(君主ではなく天が認めてくれる爵位)の修行に励み、それを背景にして世の君主に爵位を求めることに違いない。天爵を修めもしないで食べ物ばかり欲しがる小人とは、どだい考えが違うのだ。(『此木軒四書説』巻四)
言っている事がメルヘンな高慢ちきなのは言うまでもないが、これは焦袁熹が思っていたことと言うより、そう書くと康煕帝が喜ぶようなこと、と言うべきだろう。
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