論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「吾嘗終日不食、終夜不寑、以思。無益。不如學也。」
校訂
定州竹簡論語
[子曰:「吾嘗終日不]食,終夜不寢,以思,[無益也a,不如學也]。」444
- 也、近本無。
→子曰、「吾嘗終日不食、終夜不寢、以思。無益也。不如學也。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「以」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、吾嘗て終日食はず、終夜寢ねずして、以て思ふ。益無き也。學ぶに如かざる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「私は以前昼間じゅう食べず、夜中じゅう寝ないで、ものを考えた。利益がなかった。学ぶには及ばない。」
意訳
以前まる一日飲み喰いせず眠りもせず考えたことがあったが、無駄だった。勉強した方が早い。
従来訳
先師がいわれた。――
「私は、かつて、一日中飯も食わず、一晩中眠りもしないで思索にふけったことがあった。しかし何の得るところもなかった。やはり学ぶにこしたことはない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我曾整天不吃、整夜不睡,來思考。結果沒好處,還不如學習。」
孔子が言った。「私は以前一日中食べず、夜中中寝ず、ものを考えた。結果いいことはなかった、それより勉強する方が優れている。」
論語:語釈
嘗(ショウ)
(金文)
論語の本章では”以前・かつて”。初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると本章での語法は以下の通り。詳細は論語語釈「嘗」を参照。
▽文脈によっては、「つねに」とよみ、「いつも」と訳した方がよいこともある。「吾始困時、嘗与鮑叔賈=吾始め困(くる)しみし時、嘗(かつ)て鮑叔と賈す」〈むかし貧乏で困っていたころ、私は鮑叔と商売をやったことがある〉〔史記・管晏〕
終日
(金文)
終夜
「夜」(金文)
論語の本章では”一晩中”。「夜」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。亦(エキ)は、人のからだの両わきにあるわきの下を示し、腋(エキ)の原字。夜は「月+(音符)亦の略体」で、昼(日の出る時)を中心にはさんで、その両わきにある時間、つまりよるのことを意味する、という。詳細は論語語釈「夜」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
思
「思」(金文大篆)
論語の本章では、”思う”。初出は春秋末期の金文。同音に「司」があり、”うかがう”・”まもる”などの語釈を『大漢和辞典』は載せ、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「思」を参照。
益
(金文)
論語の本章では”利益”。初出は甲骨文で、「温」の甲骨文と同形。「益」の金文には二系統があり、ふやす”系統は上掲の字形となり、甲骨文から存在する。論語では「益を請う」という表現があり、”付け足しを求める”の意。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、「水の字を横にした形+皿(さら)」で、水がいっぱいになるさま、という。詳細は論語語釈「益」を参照。
不如學(学)也
「学」(金文)
論語の本章では”勉強する方がましだ”。
「也」は論語には毎章のように出てくる言葉だが、ここではため息をつくように詠歎し、”ましなんだよなあ”という意味を表す。ただし断定”である”でないとは言い切れない。論語語釈「也」も参照。
論語:付記
論語の本章は、たった一人で考えるより先人や他者の知恵を借りた方が、知的収穫は多くて早いことを述べた言葉だが、孔子は思うことを決して軽視したのではない。
學び而思はざらば則ち罔し、思ひ而學ばざらば則ち殆ふし。
学んで考えないとオタクになる。考えて学ばないと〒囗刂ス卜になる。(論語為政篇15)
ここを理解できなかったのが曽子で、ただ師の言葉や書物の暗記を知的行為と勘違いした。
曾子曰く、君子は思ひ其の位を出でず。
曽子が言った。「君子が考える事はその身の程を出ない。」(論語憲問篇28)
孔子は情報を得た際、必ずそれについて思う事を強調している。
孔子曰く、君子に九思あり。視るに明を思ひ、聽くに聰を思ひ、色は溫を思ひ、貌は恭を思ひ、言は忠を思ひ、事は敬を思ひ、疑はしきは問はむことを思ひ、忿は難を思ひ、得るを見ては義を思ふ。
君子の心がけ九つ。見る時は、あるがままに。聞く時は、真意を聞き取る。顔つきは、おだやかに。身振りは、へりくだり。言葉は、偽らず。仕事は、まじめに。疑問は、聞きただす。怒りは、後始末を思う。利益は、筋を通す。(論語季氏篇13)
孔門十哲に数えられた子夏は、さすがに曽子と違って孔子の教説を良く理解していた。
子夏曰く、博く學んで篤く志し、切に問うて近く思ふ、仁其の中に在り。
幅広く学んで立てた志に熱中し、疑問を突き詰め問題を自分ごととして思えば、仁はその中に存在する。(論語子張篇6)
また準十哲と言える子張も、同じく孔子の教説を理解していたことが論語より知れる。
子張曰く、士は危きを見て命を致し、得るを見て義を思ひ、祭に敬を思ひ、喪に哀を思ふ、其れ可ならむのみ。
士族は命を投げ出して人の危難を救う。利益を前にする時は筋が通っているかを思う。祭礼では敬いの心を忘れない。葬儀では心より悲しむ。…これでよろしい。(論語子張篇1)
対して後世の儒者がどう思ったかといえば、もちろん曽子の受け売りである。まだ儒学が帝国の国教となる以前の戦国時代ですら、荀子はより学びを強調した言葉で言い換えている。
吾れ嘗て終日し而思い矣るも、須臾之学ぶ所に如か不る也。
私は以前一日中思索にふけったが、須臾=ほんの一瞬の学びで得るほどの効果はなかった。(『荀子』勧学4)
「須」は、細いひげ、「臾」は、細く抜き出すことだから、”一瞬”と理解すればいいが、現実にはあり得ないことで、一瞬で何が学べよう。帝国の儒者はもちろんこれを受け売りし、ほぼ同じ言葉を『礼記』に載せ、あろうことか発言者を荀子から孔子に書き換えてしまった。
中国人が文書を改竄したり捏造したりするのは儒者に限ったことではないし、過去に限ったことでもないが、とんでもない連中である。その結果、論語や孔子在世当時の儒学にあった豊かな世界は押しつぶされ、思う事は禁じられ、知的作業はただ暗記だけに限られた。
しかし儒者にも言い分はあろう。なにせ中国人は抽象的な論理思考が苦手だからだ。論語や孔子の教説を受け入れるにしても、食えるものだけ食うしかない。学問とはすなわち暗記であるとした方が、儒者にとっては現実的だった。おそらく現代中国でも事情は変わるまい。
中国が共和制になってから、はや一世紀を過ぎたが、皇帝が総統や党主席に入れ替わっただけで、一党独裁は揺るぎもしない。その原因もやはり中国人の抽象思考の欠如にあり、欲望は誰でもするが計画的な思考は一握りしかできない。共産党が強力なのはそれゆえだ。
少なくとも党主席になるような人物は、若い頃技師としてダムの一つや二つ造った経験がある。つまり抽象的論理思考=数理が出来る者を、幹部として吸収している。言葉をひねくるしか能のない文系をこじらせた者が出世できないだけでも、帝政よりは進歩したのだろう。
外国人の目にどう見えようとも、中国共産党は中国人の現実に応じた政権なのだ。無論やることなすこと残忍な面が数多くあり、決して喜ばしい政権ではない。台湾がすでに多党制になったように、中国人も今後変わるかも知れない。しかしその日ははるか遠くにかすんでいる。
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