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論語と算盤・現代語訳(46)人格と修養2

『論語と算盤』人格の標準は如何

論語と算盤 楠木正成 千早城

現代語訳

人が万物の霊長なことは、万人が信じている。同じ霊長なら、人と人との間に違いは無いはずだが、世間には上に上が、そして下に下があって限りがない。実際我々が付き合うのは、上は王侯から下は下民に至るまで差が激しく、狭い村でさえ差が大きいし、一国なら途方もない。

このように人に賢愚・尊卑の区別があるなら、その価値を定めるのは容易ではない。標準的な人間など取り出しようがないからだ。しかし万物の霊長たる者、優劣があるのは当然で、昔から「棺覆いて人定まる」というように、どこかに標準点があるはずだ。

万人は皆同じという論にも、差異があるという論にも理がある。従って人の真価を決めるのに、両論を研究する必要があるが、その前に、人とは何かについて定義しよう。これまた難題で、動物とどこが違うのか、昔は簡単に決まったが、学問が進むとそうはいかない。

昔ヨーロッパの王様が、人間が自然にしゃべるのは何語かと思って、赤子を一室に収容し、人の会話を全く聞かせず教育も無しで育てた所、全くしゃべれなかったという話がある。事実かどうかは知らないが、この話から人間と動物の間はきわめて近いのではないだろうか。

人間の形をしてるからと言って、これをただちに人間とは言えない。人が動物と違うのは、徳を修め、智力を開き、世の中に貢献してはじめて人間だ。一言で言うなら、万物の霊長にふさわしい能力があって、初めて人間と言える。従って人間の価値も、ここから決まるだろう。

古来歴史人物が、どれほど社会貢献しただろうか。昔の中国では文王・武王・周公が出て徳政を行って讃えられた。これは功績も富貴も備えている。だがそれと並ぶ聖人だった孔子や、その系統の顔回、曽子、子思、孟子もまた聖人に次ぐ者として讃えられたが、富貴は伴わない。

ただの一人もただの一小国も持たなかった。この点で孔子は落第だが、孔子はそう感じただろうか。文王武王周公孔子、みなその本分を尽くして満足の内に世を去ったなら、富で人間を計るのは適当ではない。ここから、人間評価の困難さを知るべきだ。

いはく、もつてするところところやすんずるところさつすれば、ひといづくんぞかくさんや。「その人のすることをじっと見、その方法を時間を追って見、どこに落ち着くかを見れば、人の中身はどうして隠せよう」(論語為政篇10)。こうでないと、人を評定できない。

我が国も同様で、藤原時平と菅原道真、楠木正成と足利尊氏、いずれも前者が当時の成功者で、現代では後者の引き立て役だ。今では後者は子供でも知っている。世の人は人の優劣を論じるのを好むが、その実容易に判定は出来ない。

真に人を評価するなら、その人の功績や富貴をいわゆる成敗して、どれだけ世のために尽くしたかで考えるべきだ。

思案中

『論語と算盤』現代語訳
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コメント

  1. 匿名 より:

    論語と算盤を読み解くために、当サイトを大変重宝しております。
    このような有益な情報を公開していただき感謝しております。ありがとうございます。

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