『論語と算盤』人生は努力にあり
現代語訳
私は本大正二年(1913年)もはや七十四歳の老人である。だからここ数年来、なるべく雑務は避けているが、自分の立てた銀行の世話からは解放されず、老いてもまだ活動している。
人は全て老若の区別無く、勤勉*の心を失っては到底進歩しない。同時に不勤勉な国民の国家は、到底繁栄発達しない。私は自分では勤勉家のつもりで、実際ただの一日も仕事を休まない。毎朝七時少し前に起床して、どんなに数が多くても、時間の限り来訪者と面会している。
私のような七十過ぎの老人でも、このように勤勉だから、若い人には大いに勤勉になって貰いたい。怠惰はどこまで行っても怠惰で、決していい結果は生まない。だから座っていれば立ち働くより楽なようで、実は長く座ると膝が痛む。ここで寝転べば楽だろうが、今度は腰が痛くなる。
怠惰に任せればますます怠惰になるだけだ。だから人はよい習慣、勤勉努力を身に付けなければならない。
世間では智力を進めろとか、時勢を理解しろとかよく言うが、それはその通りで、そのためには学問を修める必要がある。しかし智力がいくらあっても、それを働かさねば役に立たない。働かせる、つまりは勤勉だ。その勤勉も一事のそれでは意味がない。終身勤勉でやっと満足がいくものだ。
世界を見るといい。勤勉な国は国力盛んで、怠惰な国は衰弱している。その好例は中国だが、だからこそ一人が勤勉になって一村が見習い、一村が勤勉になって一国が見習い、一国が勤勉になって天下が見習うというように、各自は自分のためだけでなく、一村一国天下のために、勤勉にならねばならない。
人の成功に智力や学問は必要だが、それだけでは十分でない。論語にこうある―。
子路が家老の季氏に仕えていた頃。弟弟子の子羔を、季氏の領地・費の代官に推薦したと聞いたので、子路に手紙を送ってやった。
「前略。そなた弟弟子を思いやり、結構に候。しかし学業途中でまだ早過ぎと思い候。かの者のためにならずと心配に候。草々。」
その返事。「謹啓。鳥鳴き山花盛りの時節、先生におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げ候。ご教示かたじけなく存じ候。しかれど治めるべき領地領民これあり候。かの者、現場働きで学べばよろしく候。本の虫ばかりが学者ではこれなく候。云々。」
―これに対して孔子は、「子路の奴書きよるわ。その口車が気に食わぬ」と言われた。その意味は、口ばかりではダメで、実際行わなければいけない、ということだ。しかし私はこの子路の手紙をいいと思う。机上の学問ばかりでは非常によろしくない。
つまりは普段の心がけだ。例えば医師と患者のように、普段養生を怠って、いざ病んでから医者に駆け込むようなもので、医者はそれが仕事だから、治してくれると思うのは勘違いだ。医者は必ず、生活習慣を注意するに違いない。
だから私は全ての人に、たゆまぬ努力を望むと同時に、普段の注意を心掛けて貰いたいと願う。
注
勤勉:原文「勉強」。渋沢翁は勉強を、”学習”と”勤勉”両方の意味で使うから、原文を読むにはどちらなのかを文脈で判断する必要がある。余談ながら漢文的に言うなら、勉強は”勉め強いる”だから、”勤勉”と考えた方が原義には近い。
『論語と算盤』正に就き邪に遠ざかるの道
現代語訳
世の中には、善悪を決めがたい事物があり、常識で判断出来ない事がある。例えば理屈を付けて言葉巧みに勧められると、知らぬ間に自分の主義主張と反対の方向に踏み入ることがある。こうした自分の本心を消されるような場合は、冷静になり自己を忘れないように鍛錬する。
例えば相手の言葉を常識と照らし合わすといい。一時的に利益があっても後日不利益になるとか、その逆とか、明瞭に意識できる。目前の事物についてこのような自省が出来たら、自分の本心に帰るのは容易だ。それによって正に就き邪に遠ざかることができる。
これが意志の鍛錬だ。しかし意志にも善悪があり、大泥棒・石川五右衛門のような悪の意志を鍛錬しても意味がない。従って鍛錬の目標を、常識に照らして定めるといい。それなら処世上に間違いを起こすことはないだろう。つまり意志の鍛錬にも常識が必要になる。
常識の養成法は別に書いたが、その根本は孝悌忠信だ。忠孝から組み立てた意志で順序よく仕事を進め、沈思黙考して決断するなら、意志の鍛錬に欠けた所はないと信じる。しかし事態は沈思黙考する余裕がある場合だけではない。とっさに応答しなくてはならない時もある。
そこで普段から意志を鍛錬していないと対応できない。だから本心と違った結末になってしまう。だから平素の鍛練を積み重ねて、それが当人の習い性になるようにしておけば、何事に対しても動じないようになるだろう。
孔子が言った。「人徳が完成していない。学問を究めていない。為すべき事を聞いても取りかかれない。能力が足りないのが改められない。これが私の心配事だ。」 論語
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