『孔子家語』現代語訳:五儀解第七(3)

孔子家語・原文

哀公問於孔子曰:「請問取人之法。」孔子對曰:「事任於官,無取捷捷,無取鉗鉗,無取啍啍。捷捷、貪也;鉗鉗、亂也;啍啍、誕也。故弓調而後求勁焉,馬服而後求良焉,士必愨而後求智能者焉。不愨而多能,譬之豺狼不可邇。」

哀公問於孔子曰:「寡人欲吾國小而能守,大則攻,其道如何?」孔子對曰:「使君朝廷有禮,上下和親,天下百姓皆君之民,將誰攻之?苟違此道,民畔如歸,皆君之讎也,將與誰其守?」公曰:「善哉!」於是廢山澤之禁,弛關市之稅,以惠百姓。

哀公問於孔子曰:「吾聞君子不博,有之乎?」孔子曰:「有之。」公曰:「何為?」對曰:「為其有二乘。」公曰:「有二乘則何為不博?」子曰:「為其兼行惡道也。」哀公懼焉。有閒,復問曰:「若是乎、君子之惡惡道至甚也。」孔子曰:「君子之惡惡道不甚,則好善道亦不甚。好善道不甚,則百姓之親上亦不甚。《詩》云:『未見君子,憂心惙,亦既見止,亦既覯止,我心則說。』《詩》之好善道甚也如此。」公曰:「美哉!夫君子成人之善,不成人之惡,微吾子言焉,吾弗之聞也!」

孔子家語・書き下し

哀公孔子に問うて曰く、「請い問う、人を取る之法」と。孔子対えて曰く、「事は官に任せ、捷捷を取る無く、鉗鉗を取る無く、啍啍を取る無かれ。捷捷は、貪る也。鉗鉗は、乱れる也。啍啍は、誕(いつわ)る也。故に弓は調(ため)し、而て後に勁きを求め焉(なん)、馬は服(つな)ぎ、而て後に良を求め焉、士は必ず愨(つつし)み、而て後智の能きなる者を求め焉。愨まず而て能多きは、之を譬うるに犲狼の迩(ちかづ)く可からざる。」と。

哀公孔子に問うて曰く、「寡人、吾が国小に而て能く守らんと欲するも、大は則ち攻む、其れ道は如何」と。孔子対えて曰く、「君を使て朝廷に礼有り、上下和み親しみ、天下百姓皆君之民たらば、将に誰ぞ之を攻めん。苟くも此の道に違はば、民畔くこと帰するが如く、皆君之讐也、将に誰を与に其れを守らん」と。公曰く、「善き哉」と。是に於いて山沢之禁じを廃て、関市之税を弛め、以て百姓に恵む。

哀公孔子に問うて曰く、「吾れ聞く、君子は博(う)たずと。之れ有り乎」と。孔子曰く、「之れ有り」と。公曰く、「何為(なんすれ)ぞ」と。対えて曰く、「其れ二乗有るが為なり」と。公曰く、「二乗有れば則ち何為ぞ博たずや」と。子曰く、「其の兼ねて悪道を行うが為也」と。哀公懼れ焉(たり)。間有りて、復た問うて曰く、「是の若き乎、君子之悪を悪みて道の至るや甚しき也」と。孔子曰く、「君子之悪道を悪むこと甚しからざらば、則ち善道を好むも亦いに甚しからず。善道を好むこと甚しからざらば、則ち百姓之上に親しむこと亦いに甚しからず。《詩》に云わずや、『未だ君子を見ず、憂いて心惙(みだる)るなり、亦た既に見て止む、亦た既に覯て止む、我が心則ち説ばん』と。《詩》之善道を好むの甚也此の如し」と。公曰く、「美き哉。夫れ君子人之善を成し、人之悪を成さざるは、吾が子の言微(なか)り焉(たら)ば、吾れ之を聞かざらん也」。

孔子家語・現代語訳

哀公が孔子に問うた。「人の採用はどうすればいいか。」孔子が答えて言った。「実務は役人に任せ、急がせ、振り回し、口やかましいの三つを行ってはなりません。急がせるのは仕事の出来上がりを貪る事であり、振り回すのは仕事を乱す事であり、口うるさいのは役人のごまかしにつながります。だから弓はまず射て試してから張りの強さを求め、馬は車につないで試し牽きをさせてから良否を決めます。人材の場合は慎み深さを見極めてから、有能かどうか判断すべきです。慎みはないが有能なものは、たとえるならサイやオオカミのような、近寄り禁止の猛獣と同じです。

哀公が孔子に問うた。「私は小さな我が国をどうにかして守ろうと思っているが、大国は遠慮無く攻めてくる。どうしたらいいか。」孔子が答えた。「殿がまず、朝廷で礼儀正しく振る舞われよ。身分の上下が互いに和み親しみ、天下の民は全て我が民、となれば、誰がその国を攻めるでしょう。もしそのようにならなければ、民は家に帰るようにそっぽを向きますし、誰もが殿の仇敵になります。そうなったら誰と共に国を守れましょうか。」哀公が言った。「いい事を言う。」そこで山や沢の立ち入り禁止を解き、関税や市場の場所代を安くし、庶民を恵んだ。

哀公が孔子に問うた。「君子はバクチを張らないというのは本当だろうか。」孔子が言った。「本当です。」哀公が言った。「なぜ。」答えて言った。「バクチとは、車を二乗持っているようなものだからです。」哀公が言った。「二乗持っていたら、なぜバクチを張らないのか。」先生が言った。「二乗めで悪の道を走るからです。」哀公はおどおどし始めた。

間を空けて哀公が問うた。「こういうことかな、君子は悪の道をどこまでも憎む、と。」
孔子「君子が為政者として激しく悪を憎まなければ、善を好むのも中途半端です。そうなると庶民が君子に親しむのも、中途半端にしかなりません。

詩に言います。『まだ君子に会っていないので、気分が塞ぎ心が乱れる。会って気分が晴れる、会い終えてやはり晴れる、私は喜びに充ちるだろう』と。詩が善を好むのは、この通り激しいのです。」

哀公「美しいな、君子が人の美点を褒めそやし、欠点を言いふらさないのは。我が師たるそなたがいなかったら、私はこの話を聞けなかった。」

孔子家語・訳注

3

博:すごろく、バクチ。論語では、孔子は特にバクチを禁じていない。

論語 孔子 せせら笑い
腹一杯食べて、ボケーッと一日中ぼんやりしているのは退屈この上ない。囲碁将棋、双六バクチなどして遊ぶ方がまだましだ。(論語陽貨篇22

『孔子家語』が現伝の姿に固まるのは後漢が終わってからだが、漢代には双六バクチは貴人のたしなみとして大いに流行った。前漢帝国をゆるがした呉楚七国の乱は、皇太子が親戚の貴公子と双六をし、コマのいさかいから双六盤で貴公子を殴り殺したことがきっかけとなった。

孝文時,吳太子入見,得侍皇太子飲博。吳太子師傅皆楚人,輕悍,又素驕,博,爭道,不恭,皇太子引博局提吳太子,殺之。孝文の時、吳の太子入りて見え、皇太子に侍りて飲み博つを得。吳太子の師と傅は皆な楚人にして、輕く悍く、又た素より驕れり。博つに道を爭いて、恭しから不。皇太子博局を引きて吳太子に提げ、之を殺す。

文帝の時代(BC180-BC157)、呉の王太子が朝廷に参内し、皇太子(のちの景帝)のおそばで酒を飲み、双六を打つことを許された。呉太子の家庭教師や守り役は、みな楚の人々であったので、呉太子は軽率で負けん気が強くなり、そして元々威張り屋だった。

呉太子は皇太子と双六をするうちに、コマの行った行かないでケンカになり、引き下がりもしなかった。皇太子は双六盤を手に取ると、それで呉太子をぶちのめし、殺してしまった。(『史記』呉王濞列伝)

孔子家語・付記

1は『荀子』哀公篇、『韓詩外伝』巻四、『説苑』尊賢篇をややいじったもの。2は『説苑』指武篇のコピペ。3は劉向『説苑』君道篇のコピペ。

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