『史記』現代語訳:孔子世家(23)古典編纂

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 侍席魯君

魯哀公問政、對曰「政在選臣。」季康子問政、曰「舉直錯諸枉、則枉者直。」康子患盜、孔子曰「苟子之不欲、雖賞之不竊。」然魯終不能用孔子、孔子亦不求仕。
魯の哀公、政を問う。對えて曰く、「政は臣を選ぶに在り。」季康子、政を問う。曰く、「直を挙げて諸を枉(まがる)れるに錯(おく)けば、則ち枉れる者は直し。」康子、盗を患う。孔子曰く、「苟くも子が不欲ならば、之を賞すと雖も窃まず。」然れども魯、終に孔子を用うること能わず。孔子も亦た仕うるを求めず。

魯の哀公が政治を問うたので、孔子は答えた。「政治は臣下の選任が肝心です。」李康子も政治を問うたので、孔子は言った。「悪党の長官に正直者を据えれば、悪党もまともになります。」李康子は盗賊の横行に困っていたが、孔子は言った。「あなたが欲張りでなければ、たとえ盗賊を表彰しようとも、盗む者は出ません。」

こうした問答はあったが、結局魯は孔子に政治を執らせず、孔子も職を求めなかった。

孔子之時、周室微而禮樂廢、詩書缺。追跡三代之禮、序書傳、上紀唐虞之際、下至秦繆、編次其事。曰「夏禮吾能言之、杞不足征也。殷禮吾能言之、宋不足征也。足、則吾能征之矣。」觀殷夏所損益、曰「後雖百世可知也、以一文一質。周監二代、鬱鬱乎文哉。吾從周。」故書傳、禮記自孔氏。孔子語魯大師「樂其可知也。始作翕如、縱之純如、皦如、繹如也、以成。」「吾自衛反魯、然後樂正、雅頌各得其所。」
孔子の時、周室、微(おとろ)えて礼楽廃れ、詩書缺く。三代の礼の跡を追い、書伝を序(つ)ぎ、上は唐虞の際を紀し、下は秦繆に至るまで其の事を編次す。曰く、「夏の礼は吾れ能く之を言うも、杞、徴するに足らざるなり。殷の礼は吾れ能く之を言うも、宋、徴するに足らざるなり。足らば、則ち吾れ能く之を徴とせん。」殷夏の損益する所を観て、曰く、「後に百世と雖も知る可きなり。一文一質を以てす。周、二代を監み、郁郁として文なるかな。吾れは周に従わん。」故に書伝、礼記は孔子自りす。孔子、魯の太師に語る、「楽は其れ知る可きなり。始め作るや翕如(キュウジョ)たり。之を縦つや純如(ジュンジョ)たり、皦如(キョウジョ)たり、繹如(エキジョ)たり、以て成る。吾れ衛自り魯に反り、然る後に楽は正しく、雅頌は各々其の所を得たり。」

孔子の頃は周王室の権威が衰えて、礼法と音楽はすたれ、詩や古記録は歯抜けが多くなった。そこで孔子は夏・殷・周、三代の礼法のかけらを追い求め、先賢の言葉や伝記を順序だてて、古くは堯・舜の時代から、新しくは秦の繆公の時代まで、その出来事をまとめて年代順に記録した。

作業を終えてこう言った。「夏王朝の礼法はよく分かったが、その末裔の杞国は情報をとるに足りない。殷王朝の礼法は分かったが、その末裔の宋国は情報を取るに足りない。足りるならもう少しましなことが言えるのだが。」

また殷・夏王朝の盛衰を振り返って言った。「これから百世代のちでも、似たような事件が繰り返されるだろう。二王朝の記録と、実際にあったことを調べてそう感じた。今の周王朝は二王朝の歴史を鏡にして、匂うように華やかな文化を開いた。私は周が最も優れた文化国家だと思う。」

こうした事実から、『書経』『春秋』『礼記』は孔子が書いたと言えるのである。

また孔子は魯の楽長に語った。「音楽の要点は簡単ですぞ。初めは各楽器の音を揃え、それぞれが独立して響くようにし、激しく鳴らして伸ばしに伸ばし、スッと終えれば出来上がりです。」

そして満足気にこう言った。「私が衛から魯に帰ると、音楽は正しく奏でられるようになり、礼法に従ってふさわしい曲と歌が、ふさわしい場所で演じられるようになった。」

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