『史記』現代語訳:孔子世家(21)魯衛兄弟

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 漢高祀魯

於是孔子自楚反乎衛。是歲也、孔子年六十三、而魯哀公六年也。其明年、吳與魯會繒、征百牢。太宰嚭召季康子。康子使子貢往、然後得已。
是に於いて孔子、楚自り衛に反る。是の歳や、孔子年六十三にして、魯の哀公六年なり。其の明年、呉、魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭(ヒ)、季康子を召す。康子、子貢をして往かしむ。然る後已むを得たり。

〔楚での仕官が失敗に終わり〕そこで孔子は楚より衛に帰った。孔子は六十三歳、魯哀公六年(BC489)である。その明くる年、呉は魯と繒で会し、呉の宰相・伯嚭は牛・羊・豚三品揃いの料理百組みの宴会と、魯の季康子の応接を求めた。捕縛を恐れた李康子は、子貢を派遣して説得させ、その結果要求を引き下げさせることに成功した。

孔子曰「魯衛之政、兄弟也。」是時、衛君輒父不得立、在外、諸侯數以爲讓。而孔子弟子多仕于衛、衛君欲得孔子爲政。子路曰「衛君待子而爲政、子將奚先?」孔子曰「必也正名乎!」子路曰「有是哉、子之迂也!何其正也?」孔子曰「野哉由也!夫名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所錯手足矣。夫君子爲之必可名、言之必可行。君子于其言、無所苟而已矣。」
孔子曰く、「魯・衛の政は兄弟なり。」是の時、衛君輒(チョウ)の父は立つを得ずして、外に在り。諸侯、数々(しばしば)以て譲(せ)むるを為す。而して孔子の弟子多く衛に仕う。衛君、孔子を得て政を為さんと欲す。子路曰く、「衛君、子を待ちて政を為さば、子将に奚(なに)をか先にせんとす。」孔子曰く、「必ずや名を正さん。」子路曰く、「是有るかな、子の迂(まわりくどき)なるや。何ぞ其れ正さん。」孔子曰く、「野(あらけずり)なるかな由や、夫れ名、正しからざらば、則ち言は順わず、言順わざらば、則ち事成らず、事ならざらば、則ち礼楽興らず、礼楽興らざらば、則ち刑罰中らず、刑罰中らざらば、則ち民は手足を錯(お)く所無し。夫れ君子は之を為せば必ず名づく可し、之を言えば必ず行う可し。君子は其の言に於いて、苟くもする所無きのみ。」

孔子が言った。「魯と衛の政治は兄弟である。」この時、衛君の輒=出公の父が即位できず、国外にいたので、諸侯はたびたび衛を攻めた。一方で孔子の弟子は数多く衛に仕え、衛君は孔子に政治を摂らせようとした。子路が言った。「衛君が先生を呼んで政治を摂らせたら、先生はまず何をしますか。」

孔子が言った。「必ず物の名前を正確にしようか。」子路が言った。「これだから先生は、回りくどいというのです。名前なんか正確にして、どうなるというのです。」

孔子が言った。「わかっとらんなお前は。そもそも物の名前が正しくなければ、言葉と中身が一致しない。一致しないと何をやってもうまくいかない。〔豚肉を羊料理でございと飯屋が出したら、客とケンカになるだろうが。〕もちろん礼法と音楽の教育もうまくいかない。教育がうまくいかなければ、刑罰が公正にならない。刑罰が公正でないと、民は怯えて安心した生活が出来なくなる。いいか、君子たる者必ず名前を正しく言う。言ったからには必ずその通り行う。君子の始まりは、言葉が乱れていないことなんだぞ。」

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