『史記』現代語訳:晋世家・平公

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『史記』原文

平公元年,伐齊,齊靈公與戰靡下,齊師敗走。晏嬰曰:「君亦毋勇,何不止戰?」遂去。晉追,遂圍臨菑,盡燒屠其郭中。東至膠,南至沂,齊皆城守,晉乃引兵歸。
六年,魯襄公朝晉。晉欒逞有罪,奔齊。八年,齊莊公微遣欒逞於曲沃,以兵隨之。齊兵上太行,欒逞從曲沃中反,襲入絳。絳不戒,平公欲自殺,范獻子止公,以其徒擊逞,逞敗走曲沃。曲沃攻逞,逞死,遂滅欒氏宗。逞者,欒書孫也。其入絳,與魏氏謀。齊莊公聞逞敗,乃還,取晉之朝歌去,以報臨菑之役也。
十年,齊崔杼弒其君莊公。晉因齊亂,伐敗齊於高唐去,報太行之役也。
十四年,吳延陵季子來使,與趙文子、韓宣子、魏獻子語,曰:「晉國之政,卒歸此三家矣。」
十九年,齊使晏嬰如晉,與叔向語。叔向曰:「晉,季世也。公厚賦為臺池而不恤政,政在私門,其可久乎!」晏子然之。
二十二年,伐燕。二十六年,平公卒,子昭公夷立。

『史記』書き下し

平公元年、斉を伐つ。斉の霊公、与に靡下に戦う。斉の師、敗走す。晏嬰曰く、「君、亦いに勇毋からん。何ぞ止まりて戦わざる。」遂に去る。晋、追いて遂に臨菑(リンシ)を囲み、尽く其の郭中を焼き屠り、東は膠(コウ)に至り、南は沂(キ)に至る。斉、皆城守す。晋乃ち兵を引きて帰る。六年、魯の襄公、晋に朝(もう)ず。晋の欒逞(ランテイ)、罪有り。斉に奔る。八年、斉の荘公、微(ひそ)かに欒逞を曲沃(キョクヨク)に遣り、兵を以て之に随わしむ。斉の兵、太行に上る。欒逞、曲沃の中従り反し、襲いて絳(コウ)に入る。絳、戒めず。平公、自殺せんと欲す。范献子、公を止め、其の徒を以て逞を撃つ。逞敗れ、曲沃に走る。曲沃、逞を攻め、逞死す。遂に欒氏の宗を滅ぼす。逞は欒書の孫なり。其れ絳に入るや、魏氏と謀る。斉の荘公、逞の敗るるを聞き、乃ち還り、晋の朝歌を取りて去り、以て臨菑の役に報ゆなり。十年、斉の崔杼(サイチョ)其の君荘公を弑す。晋、斉の乱に因りて伐ち、斉を高唐に敗りて、去り、太行の役に報ゆるなり。十四年、呉の延陵の季子、来たり使いし、趙文子・韓宣子・魏献子と語りて曰く、「晋国の政は、卒に此の三家に帰せん。」十九年、斉、晏嬰をして晋に如かしめ、叔嚮(シュクキョウ)と語る。叔嚮曰く、「晋は季世なり。公、賦を厚くし、台池を為り、而して政を恤えず。政は私門に在り。其れ久しかる可けんや。」晏子、之を然りとす。二十二年、燕を伐つ。二十六年、平公卒し、子の昭公夷立つ。

『史記』現代語訳

平公元年(BC557)、斉を伐った。斉の霊公は、自ら軍を率いて戦った。斉軍は敗走した。斉の名臣・晏嬰が言った。「殿、臆病が過ぎますぞ。どうして踏みとどまって戦わないのですか。」しかし霊公はそのまま逃げた。晋軍は追撃して、斉の都・臨菑(リンシ)を包囲し、城壁内を全て焼き払い、東は膠*(コウ)まで至り、南は沂*(キ)まで至った。斉の各都城は立てこもった。そこで晋軍は引き返した。

六年(BC552)、魯の襄公が晋へ服属の挨拶に来た。晋の欒逞*(ランテイ)は罪を犯して、斉に亡命した。

八年(BC550)、斉の荘公は密かに欒逞を晋の旧都・曲沃(キョクヨク)に送り、兵を付けた。斉の兵が、太行山脈まで攻め寄せた。欒逞は曲沃から出撃し、晋の都城・絳(コウ)に入城した。絳のまちは警戒していなかった。晋の平公は自殺しようとした。范献子が平公をおし止め、自分の家臣を率いて欒逞に反撃した。欒逞は敗れて、曲沃に逃げた。曲沃の守備隊が欒逞を攻めたので、欒逞は戦死した。こうしてついに欒氏の宗家が亡んだ。欒逞は欒書*の孫だった。欒逞が絳に入城した時、魏氏と何かを相談した。斉の荘公は欒逞が敗れたと聞いて、引き返して晋の朝歌を占領し、臨菑の役の報復をした。

十年(BC548)、斉の崔杼(サイチョ)がその主君・荘公を弑した。晋は斉の混乱に乗じて出兵し、斉軍を高唐で敗って帰り、太行の役の報復をした。

十四年(BC544)、呉の延陵の季子が使者として晋に来て、趙文子・韓宣子・魏献子と会談し終えて言った。「晋国の政治は、しまいにはこの三家の手に握られるだろう。」

十九年(BC539)、斉は晏嬰を使者として晋に行かせ、晏嬰は叔嚮(シュクキョウ)と会談した。叔嚮が言った。「晋は世も末です。国公は税を重くし、宮殿の庭造りに精を出し、その上政治を心配しません。政権は家臣に握られてしまいました。どうして長続きしましょう。」晏嬰はその通りだと思った。

二十二年(BC536)、燕を攻撃した。

二十六年(BC532)、平公が死に、子の昭公夷が国君に立った。

『史記』注

膠・沂:山東半島の川。地図参照。

論語 斉 魯 地図

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欒逞・欒書:欒氏は晋の公室の分家で、代々重臣を出した。

BC557 魯襄公16 晋平公1 孔子 晋・斉を伐って都城を焼く
552 21 6    

魯・襄公、晋に朝見

551 22 7 1 孔子、魯国・昌平ショウヘイ郷・スウ邑に生まれる。西暦推定日付9/28。父・叔梁紇シュクリョウコツは70過ぎの武人、母・顔徴在ガンチョウザイは17の巫女

魯・国政の実権は三桓サンカン=三家の門閥家老が掌握

550 23 8 2  

斉、晋を攪乱して朝歌を占拠

549 24 9 3 父亡くなる。母と共に魯の都・曲阜のケツ里に移住。母は父の墓所を隠す
548 25 10 4 斉・崔杼、荘公を殺す。晋、斉の混乱に乗じて攻撃。斉の景公即位
  この頃、お作法道具で遊ぶ
544 29 14 8 呉の延陵の季子、晋に来たる。弟子の冉伯牛ゼンハクギュウ生まれる。三桓の筆頭・季武子、勢力拡大
542 31 16 10 弟子の子路生まれる。魯・襄公死去。3ヶ月後に跡継ぎも死去。
541 昭公1 17 11 魯・季武子、20歳の昭公を魯公に擁立
539 3 19 13   斉の晏嬰、晋に来たる
538 4 20 14 魯・叔孫穆子死去
537 5 21 15 学に志す 魯・三桓、魯の軍権・徴兵権を四分し、1/2を季氏が、残り1/4ずつを叔氏・孟氏が分け取る
536 6 22 16 晋、燕を攻撃。弟子の閔子騫ビンシケン生まれる。鄭の家老子産、法鼎ホウテイを鋳て法律を公開
  この頃、母死去。知人の輓父バンプの母から父の墓・防山を教えられ、合葬
535 7 23 17 季平子の宴会に出掛け、執事の陽虎に追い返される 魯・季武子死去
532 10 26 20 幵官ケンカン氏と結婚 晋・平公死去

『史記』付記

思案中

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