『史記』現代語訳:仲尼弟子列伝(14)曽子・澹臺滅明・子賤

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 放鯫知徳

曾參子輿(そうしん・しよ)

曾參,南武城人,字子輿。少孔子四十六歲。孔子以為能通孝道,故授之業。作《孝經》。死於魯。
曽参は、南武城の人なり、字は子輿。孔子より少きこと四十六歳。孔子以為らく、能く孝道に通ず、と。故に之に業を授く。孝経を作る。魯に死す。

曽参(曽子)は、魯国の南武城の人である。字は子輿。孔子より四十六歳年少。孔子は曽参を、親孝行を会得できると見なした。それで曽子に学問を教えた。『孝経』を書いた。魯で死んだ。

後世、孔子・孟子に次ぐ神格化が行われたが、孔子自身ははっきりと「うすのろ」と評しており、司馬遷もこのように大した字数を書いていない。詳細は論語の人物:曾參子輿を参照。

澹臺滅明子羽(たんだいめつめい・しう)

澹臺滅明,武城人,字子羽。少孔子三十九歲。狀貌甚惡。欲事孔子,孔子以為材薄。既已受業,退而修行,行不由徑,非公事不見卿大夫。南游至江,從弟子三百人,設取予去就,名施乎諸侯。孔子聞之,曰:「吾以言取人,失之宰予;以貌取人,失之子羽。」
澹臺滅明は、武城の人なり、字は子羽。孔子より少きこと三十九歳。状貌甚だ悪し。孔子に事えんと欲す。孔子以為らく、材薄し、と。既に已に業を受く。退きて行いを修む。行いは径に由らず、公事に非ざれば卿大夫を見ず。南に游びて江に至る。弟子三百人を従え、取予去就を設く。名、諸侯に施く。孔子、之を聞き、曰く、「吾、言を以て人を取り、之を宰予に失う、貌を以て人を取り、之を子羽に失う。」

澹臺滅明は、武城の人である。字は子羽。孔子より三十九歳年少。見た目が極めて悪かった。孔子に弟子入りしようと思ったが、孔子は素質が良くないと見なした。学業を修め終わって、孔子塾を去って行いを修練した。その行動はせせこましいところがなく、公務でなければ上級貴族に会わなかった。南方に旅をして長江に行った。弟子三百人を従え、仕官の道、退官の道を説いた。その名は諸侯に知れ渡った。孔子がその噂を聞いて言った。「私はその話を聞いて人を評価したが、宰予と出会ってそれが間違いと分かった。顔つきで人を評価したが、子羽と出会ってそれが間違いと分かった。」

論語の誤読によって作られた人物で、訳者は実在の人ではないと考えている。詳細は論語の人物:澹臺滅明子羽を参照。

宓不齊子賤(ふくふせい・しせん)

宓不齊字子賤。少孔子三十歲。孔子謂子賤,「君子哉!魯無君子,斯焉取斯?」子賤為單父宰,反命於孔子,曰:「此國有賢不齊者五人,教不齊所以治者。」孔子曰:「惜哉不齊所治者小,所治者大則庶幾矣。」
宓(フク)不齊、字は子賎。孔子より少きこと三十歳。孔子、子賎を謂う、君子なるかな、魯に君子無かりせば、斯れ焉んぞ斯れを取らん。」子賎、単父(ゼンホ)の宰と為り、孔子に反命して、曰く、「此の国に不齊より賢なる者五人有り、不齊に治むる所以の者を教う。」孔子曰く、「惜しいかな、不齊の治むる所の者は小なり、治むる所の者、大なれば則ち庶幾(ちか)からん。」

宓不齊、字は子賎。孔子より三十歳年少。孔子は子賎を評して言った。「まことに君子らしい人だ、魯に君子はもういなくなってしまったが、子賎のおかげで君子国として名が通っている。」子賎は単父のまちの代官になり、任期を終えて孔子に報告した。「この国に私より賢こい人が五人いまして、私に統治の方法を教えてくれました。」孔子が言った。「惜しいことだ、お前の治めたまちは小さい。大きなまちを治めたなら、お前の人物と釣り合っただろうに。」

このように政才があったにもかかわらず、孔門十哲には入っていない。孔子も怪しむほど、正体不明の政治力を持っていた。上掲の画像はその逸話の一つで、「鯫(こざかな)を放って徳を知る」と題する。詳細は論語の人物:宓不齊子賤を参照。

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