曾子曰く、終りを愼み遠きを追はば、民の德厚きに歸り矣らん。(論語学而篇9)
みなさんこんにちは。カーラです。
世界の大宗教の開祖が亡くなった出来事は、その弟子にとっては忘れがたい衝撃でした。イエスの場合は代表的な四福音書がその模様を伝えていますし、ブッダの場合は『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』という、ブッダの最晩年から入滅直後までの詳しい記録があります。ムハンマドについては、不勉強ながら知りません。
日本語訳の『コーラン』『ハディース』には目を通したのですが、読み落としたのでしょうか、管見の限りとしか申せません。さて本命の孔子についてですが、従来はイエスやブッダのような伝記を欠いていたと言われてきました。とりわけ日本哲学の開祖の一人である、和辻哲郎博士が断言してから、常識化しました。
つまり最古の記録たる『論語』には孔子の死についての明白な記録がないのである。こんなことは人類の教師としては実に珍しい。(『孔子』)
大先生の仰せですが、ここで異論を唱えましょう。論語の子罕篇、とりわけその後半は、明確に孔子の最晩年を記述しています。試しにそのつもりで、以下をざっと眺めて下さい。
呉へ使いに出した子貢が帰ってきて、宰相伯嚭どのとの話をべらべら喋った。
「伯嚭どのが先生をおっしゃったんです、”孔子先生は聖者(万能の人)ですな。何でもお出来になる”と。私はうれしくなりましてね、”仰る通り、天が先生に万能の才をお授けになったのです”と申し上げました。」
孔子「子貢よ。そりゃほめ言葉じゃないぞ。伯嚭どのは私の出身を皮肉っているんだ。私も若い頃は身分が低かった。いろんな仕事で食いつないだもんさ。」(論語子罕篇6)
弟子の牢「先生はかつて仰った。”私は就職できなかったから多芸になった”と。」(同7)
…子貢よ。私は物知りではない。あの物を知らぬ呉の田舎者相手に、政治の手練手管をすっかり教え尽くしてしまったが、どうにも最近様子が怪しいではないか。(同8)
…本当に怪しいのだ。我が若殿哀公さまが即位なさって十年(BC485)。ついに呉国が斉を破り、覇者となったというのに…。
どうもおかしいな。呉王がこんなに威勢がいいというのに、めでたい鳳凰も飛んでこぬしありがたい龍馬も出ない。
…しくじったかな。(同9)
散歩したら川に出た。
…とうとうと流れているなあ。昼も夜も絶え間なく(=逝くものはかくのごときか昼夜をおかず)。(同17)
どいつもこいつも、秘めたるパワーを身につけるより、女の方がいいようだ。(同18)
同志諸君!
革命とは山を作るようなものだ。カゴ一杯盛らねば一杯分成功が遠のく。
革命とは穴を埋めるようなものだ。カゴ一杯盛ったら一杯分成功が近づく。(同19)
顔回が死んだ!
私が熱く語ってもうんざりしないのは、顔回だけだったな。(同20)
顔回。
惜しい弟子だった。進歩し続け、ついぞ退化しなかった。(同21)
顔回よ、安らかに。
種を撒いて穂が出ないのもあろう。出ても実らないのもあろう。(同22)
顔回を思うと涙が出る。
年下はバカにできない。自分より劣りとどうしてわかる(=後世畏るべし)。
晩年になっても評判が悪い、どうしようもない奴だっているというのに。(同23)
顔回は二人とない逸材だった。
神のお告げ(=法語之言)を聞かない者はいないが、それに従って自分の間違いを改める者は少ない。神に申し上げるように(=巽與之言)語れば誰もが喜ぶが、その意味を問いただして理解しようとする者は少ない。うわべだけ聞いた振りする者は、教えようがない。(同24)
諸君。言い残しておくことがある。
いつわるな。つっかえている者は教えてやれ。
間違いを改めるのを恥と思うな。(同25)
諸君。忘れないでくれ。
大将軍でもクビに出来る。しかし。
凡人だろうと志を変えさせることは出来ないのだ(=匹夫も志を奪うべからず)。(同26)
子路も死んだ!
破れた綿入れを着たまま、上等の毛皮を着た者と並んで平気でいられるのは、お前だけだったな。(同27)
子路よ。お前はよく歌っていたな。
「♪ひがみませぬ~欲しがりませぬ~、悪いことも致しませぬ~。」
あれはそんなに大層な歌ではなかったんだがな。(同28)
それにしても今年は寒いな。
…そのはずだわ、マツやヒノキさえ葉を落としてるじゃないか。
他の木よりはがんばったな。我らも、また。(同29)
同志諸君。長い間よく耐えてくれた。
――知者はものを知っているから迷わない。
仁者は悟っているから悩まない。
勇者は腕があるから恐れない。
諸君らはそのいずれかだ。(同30)
今や冥土に、あるいは諸国に散ってしまった幹部諸君。
諸君を選んだのにはわけがあったのだよ。
――弟子入りしても、多くは技が身に付かなかった。
身に付いても、多くは革命に加わらなかった。
加わっても、多くは計略が立てられなかった。
どうか覚えていてくれ。(同31)
♪唐棣(=スモモ)の華、ひらひらと~。
♪いかであなたを、忘れよう~。
♪遠いがために、行けぬのだ~。
呉国は遠いな。
こんな言い訳、昔は思いもしなかったのだがな。(同32)
つらつら眺めていかがでしょうか。生涯貪欲に生を追求した孔子が、何を思ったか河に出かけ「逝くものは…」とまるで隠者のようなことを口にする。そして息子を失い、友を失い、最愛の弟子二人が相次いで亡くなる。さらに追い打ちをかけるように、頼みにしていた呉国が留守を越に襲われ、あっという間に滅亡に向かう。
上で友と言ったのは、年表の孟懿子です。魯国門閥家老三家=三桓の一家の当主で、儒者や漢学教授はこの三桓を、殿様の権威を奪った孔子の政敵と憎む振りをしますがそれは筋違いです。最下層の平民だった孔子に目を掛け、出世の糸口を作ったのは孟孫家の先代でした。孔子の洛邑留学を世話したのは孟懿子と弟でした。
洛邑はのちの洛陽です。周王朝の都で、その権威は衰えたとは言っても、中華文明の中心でした。孔子は孟孫家兄弟のつてで殿様から奨学金を貰い、洛邑で老子から学問を授けられたのです。この経験無しに、その後の孔子はあり得ません。むろん生き馬の目を抜く戦乱の世の政界ですから、政敵に回ることもありました。
しかしそれと個人的な付き合いは別です。互いの最晩年、もう長くないと悟った二人はわざわざ会って物語りをし、孟懿子は跡継ぎの孟武伯に孔子を引き合わせ、何か役立つ話をしてやってくれと頼んでいます。そのおりの会話が、論語に残っています。
孟懿子が孝行を問うたので、孔子は「はみ出ないようになされ」と一言だけ言って外に出た。待っていたのが車の手綱を取る、弟子で身辺警護を務める樊遲。孔子は樊遲に、かくかくしかじかのやりとりがあったと話した。どういう意味です、と樊遲が問うたので孔子は答えた。
「親が生きている間も、亡くなった時も、亡くなった後も、礼法通りに応対すれば、それで文句は出るまいよ。今跡取りの孟武伯どのがいるが、気に触ったことがあっても礼法通りなら、大目に見てやらにゃあいけませんぞ、そんなところだね。」(論語為政篇5)
孟武伯「孝行とは何でしょう。」
孔子「まことに、子の病気を親はいつになっても気にかけています。心配掛けないようになされ。」(論語為政篇6)
話を孔子の晩年に戻すと、さほど愛は無いとはいえ一人息子、最愛の弟子二人と友に先立たれ、政治的後ろ盾だった呉国も滅ぶようでは、気を落とすなと言うのが無理でしょう。そして当時としては超人的な年齢にすでに達しています。孔子は夕日のように、するすると衰えて世を去ったのです。それを記したのが子罕篇です。
儒者や教授先生がなぜそれに気付かなかったかと言えば、論語の各篇がそれぞれ雑多な編集の繰り返しの結果であることを知らず、知っていても分別する手段を持たなかったからです。それは時代的制約もあって無理からぬ事でしたが、好き好んで儒教の洗脳にどっぷり漬かり、三桓の専横にウソ泣きしたのは頂けません。
まこと認識論の世界の話で、見ようとしなければ目の前にぶら下がっているものすら見えません。見たいと思うから、やがて見えるようになる道が開けるのです。子罕篇に話を戻せば、そのほとんどは弟子による孔子の回想録です。ただし漢代の儒者官僚がブチ込んだ、膨れ済みのベーキングパウダーを取り除く必要はあります。
その結果、孔子最晩年の記録だったと分かるのです。そして子罕篇は論語全二十篇のうち第九、前半の終わり近くに当たります。古くから言われていることですが、論語の前半は曽子派の手による編集で、後半が子貢派によると言われてきました。そうそうスパリと切り分けられはしないことが、子罕篇からも分かります。
曽子が論語の冒頭あたりでやらかしている自己宣伝や、人を落とし入れる洗脳話が少ないからです。一つ前の泰伯篇と比較するとよく分かります。泰伯篇はもと、孔子とその政治的後ろ盾だった呉国の使節との応接の記録でした。そこへ曽子が唐突な自己宣伝をブチ込み、さらに漢帝国の儒者官僚が洗脳話を混ぜ込んだのです。
両者を取り除くと、ありありとそれが呉関係の話と分かります。みなさんの中には、若い研究者の方がいるかも知れませんからつけ加えますと、論語のような言行録を読む際、誰の発言かで分別すると、色々と面白いことが分かってくるのです。論語についてはこの物語でもうやってしまいましたから、他で試して下さい。
妙なことをすると、全国どこでもお伺いしますので、覚悟して下さいね。筆者は隠居で暇な上、有段者で毎日刀の手入れは欠かしていないので。長いこと学界や出版界にいましたから、どこがどうなっているか知ってますし。引用は自由にして頂いてかまいませんが、出典は明記しないとそれは犯罪ですよ、一般社会の通念では。
漢学教授は平気で他人の書き物をパクりますが、外の世界では通用しません。
(道場にて、筆者)
さてそれでは本章ですが、これも曽子派による戦国時代以降のでっち上げです。「慎」の字が新しいですから、曽子自身による竄入(いつわりの挿入)ではなさそうです。おそらく孟子あたりでしょう。現代語訳は、文法語法学的に正確なのと、曽子派に好意的なのとを対比させてみましょうか。
文法語法的に正確:
カシコいボクちゃんたち儒者が、この世の行いに気を付ければ、下民どもは素直でおとなしくなるのであるぞよ。
好意的:
自分もいつか死ぬのだ。悪事を働いている場合じゃない。
これ、従来は次のように解釈されてきました。論語には珍しく、文法的に正確な方に近いのです。
曾先生がいわれた。――
「上に立つ者が父母の葬いを鄭重にし、遠い先祖の祭りを怠らなければ、人民もおのずからその徳に化せられて、敦厚な人情風俗が一国を支配するようになるものである。」(下村湖人『現代訳論語』)
訳者の下村先生は『次郎物語』の作者として知られました。
それ以上に特筆すべきは、破廉恥漢ばかりだった戦前の文士、例えば姪を犯して逃亡した島崎藤村、中国に買春に出かけて病気を拾い、その恐怖で自殺した芥川龍之介、買春の金を他人にせびり続けた石川啄木ら、とは違い謹直な人柄で、思想的に左翼でも無いのに、命がけで軍部の横暴に抵抗した教育者だったことです。
しかし先生も時代的制約から、例えば朱子の吹いたホラを真に受けて訳すしかありませんでした。上掲の訳はほとんど、朱子のコピペです。しかし本章に話を限るなら、それで正解でした。
慎終とは、礼法にかなった葬儀をすることだ。追遠は、誠実な祭祀を行うことだ。民徳帰厚は、下民にこのことわりを教えることを言い、そうした道徳が丁寧に行われるようになることを指している。
ところが私の感想では、人は自分の死を考えないようにして生きている。しかし我ら君子は、死を身近に捉えることが出来る。人は遠い先のことを考えないで生きている。しかし我ら君子は、それをあらかじめ考える事が出来る。
これが下民に道徳を行き渡らせる道だ。だからこの二つを考える習慣を身につけると、自分の道徳が高まる。それを教えれば、下民でさえ道徳的になるだろう。(『論語集注』)
”下民どもに我ら賢い儒者が教えてやる”という態度が気にいりませんが、本章に限ると、朱子の言う通りに曽子が発言した可能性は高いのです。朱子と曽子の民衆観は、おそらく同じでしょう。対して孔子は民主主義者ではありませんでしたが、「下民」とは決して言っていません。それに対して朱子のえらそうなこと。
朱子の生きた宋帝国は、儒学が他学派を完全に圧倒し、官僚兼政治家のほぼ全てが、儒者で占められました。身分ではなく自力で這い上がってきただけに、儒者は万能感に包まれ、その結果開祖の孔子をも凌ぐ、高慢ちきになるのも無理ないことだったのです。
現代日本でさえ、心底小ばかにしつつ「コクミンのミナサマ」とか棒読みで言う役人がいます。しかし国会で「下民」と言いでもしたら、当然当人はクビでしょうし、政権そのものが倒れかねないでしょう。「下民」と言うのにに限りなく近くとも、なお踏みとどまるのが、せいぜいの良心と言うべきでしょう。
朱子にはその最小限の良心すらありません。時代が違うと言えばそれまでですが、民を保護しない政府には政府の資格がありません。これは古代も変わりません。朱子の生まれた頃の皇帝徽宗も、道楽にうつつを抜かした挙げ句に国を滅ぼしましたが、最後の最後になって「ごめんなさい」と民に謝りました。
…今になってどんなに悔やもうとも、もう取り返しがつきそうにない。…ああ民百姓の諸君、どうか予を許してくれ!(北宋徽宗「罪己詔」)
徽宗だけではありません。朱子の仕えた宋の開祖趙匡胤も、主君だった高宗も、政治の不行き届きを民にわびました。だからでしょう、宋の滅亡を救わんと、民百姓はこぞって義勇軍に参加しました。政府との信頼が徹底的に損なわれている現代中国には、あり得べからざる奇跡が、かつてあったのです。
宋の滅亡の仕方は、『平家物語』壇ノ浦の下りと非常によく似ています。訳者サイトに『宋史』の現代語訳を載せておきましたので、興味のある方はご覧下さい。儒者も最後だけは立派で、幼い皇帝を守りつつ、守り切れぬと明らかになって、皇帝をかばいつつ入水し、最後の将兵とともに立派に散華していきました。
「尼ぜ、我をばいづちへ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、稚き君に向かひ参らせ、涙をはらはらと流いて、「…御念仏候ふべし。」…西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位の尼先帝を抱き参らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め参らせて、千尋の底に沈み給ふ。(『平家物語』)
最低限の良心がある、「孔子の中国」はおそらく、宋帝国の滅亡とともに滅びました。その後の中国史は、昆虫のように合理的に福禄寿を追求する、極めて特徴的な人類の一種の物語に過ぎません。確かに、論語を読まねば中国人は分かりませんが、論語だけで分かるものでもありません。
宋滅亡後モンゴルの支配を経て、それを追って建国した明の儒者には、もうこうした硬骨はありません。明末、昨日まで崇禎帝を拝んでいた儒者は、それを攻め殺した李自成を拝んで迎え、さらにそれを追った満洲人の王に這いつくばいました。鄭成功など復明運動をした熱血漢はちらほらいましたが、個人の趣味に過ぎません。
宋滅亡前後、中国から日本へ蘭渓道隆・無学祖元など高僧が亡命しました。しかし明滅亡時にやってきた朱舜水を、水戸の黄門様は勘違いして拝みましたが、引退した普通のラーメン屋のおやじです。抗清戦の前線で戦った熱血漢・朱舜水は後ろめたかったのでしょう、せめてラーメンを振る舞って黄門様の厚遇に応えています。
要するに儒者も坊主も、野蛮人呼ばわりした満洲人の家臣になりたがったのです。
それではみなさんごきげんよう。カーラでした。