論語ものがたり:第七話 スケベ禁止とド助平が言う

子夏しかいはく、さかしきをたふとびてかんばせへ、父母につかへての力をつくし、君に事へて能く其の身を致し、朋友交はるに言ふまこと有らば、未だまなばずとふといへども、われこれ學びたりと必ずふ。(論語学而篇7)


挿絵(By みてみん)

みなさんこんにちは。カーラです。

前回、孔子が家族に冷たかったことを申しました。多分に孔子の体質の結果です。孔子は性的不能ではありませんでしたが、世間一般よりは異性への欲望が薄かったようです。若者だった弟子たちが、孔子を畏敬の目で仰いだ理由の、少なからぬ部分はこれが担っているでしょう。思春期の記憶は、誰にも覚えがあるからです。

挿絵(By みてみん)

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先生が衛国滞在中、殿様の奥方で美貌で知られた南子さまに、「どうしても」と呼ばれ、仕方なくサシで会った。終えて出てきた先生を、子路さんが疑いの目つきででジロジロ眺めるから、先生は慌てて言った。

「誓ってもいい。何もなかった。何もなかったと言っておろうが!」(論語雍也篇28

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このエピソードは、孔子に興味を持ったあらゆる人間によって注目されたようで、いろいろな伝説や創作、はてはゲスの勘ぐりが行われました。戦後日本で論語の権威とうたわれ、その実儒者の書いたでっち上げをただコピペしただけの男は、「南子も脂ぎった年増だったであろう」と妬んで書いています。これがゲスの…です。

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旧帝大教授だろうが、所詮雇われ人に過ぎません。むろん、雇われ人がいけないわけではありません。立派な仕事です。しかし、妬みを地位を利用して世に垂れ流した雇われ男は、それはち○こリーマンです。権力とはち…の理解を超えています。千万人から一人を勝手に引き出して、”死ぬか、従うか”を強制できるのです。

脂ぎった年増に、いつまでも付き合う必要はありません。南子は美人でした。それも子路が疑うほど、武者ぶりつきたいような美少女でした。それが南子の方から望んで孔子に会いたがったのは、自分の容姿以外、自分の命を守るものがなかったからです。事実南子はのちに暗殺されます。だから助けて欲しかったのです。

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孔子は亡命中とは言え、もと魯の宰相でした。引き連れている弟子は、みな武芸に達者な私兵集団でした。しかもアキンド子貢の本店は、当時衛国にありました。加えて孔子が滞在したのは、魯・衛ばかりではなく、周辺諸国にまでシマを広げた、任侠道の大親分・顔濁鄒ガンダクスウの屋敷でした。親分は弟子の子路と顔回の親戚です。

味方にしたくて当然です。南子の手練手管を、司馬遷は『史記』に書いています。

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衛霊公の夫人に南子という者がいて、人をつかわして孔子に言った。「四方の君子で、我が殿と兄弟になろうとして、偶然を頼まない者は、必ず私と会見します。私は会見を願います。」

孔子は辞退したが、やむを得ず南子と会った。南子は薄い葛布のとばりの中にいた。孔子は門より入り、北面して頭を地に付けて挨拶した。夫人はとばりの中から挨拶を返し、身につけた宝石の音がコロコロと鳴った。

孔子が言った。「私は以前、お会いしませんでしたが、今お目にかかって挨拶を申し上げます。」会見を終えて出たが、子路は不満顔だった。孔子が天に誓って言った。「私に後ろ暗いことがあれば、天が嫌って罰するだろう。罰するだろう。」

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チョウ・ユンファが孔子を演じた映画『孔子』でも、この場面はショービジネス的に「イケる」と思われたようで、金のかかったセットが用意されました。しかし史実の孔子はこれほどの誘惑を受けても跳ね返したのです。普通のたわいもない女の子ですら、男を手に入れようとするときの爆発的威力はすさまじいのにです。

孔子は異性に興味が無いと言うより、むしろ冷淡でした。だから色事で身を持ち崩す同性を軽蔑していましたし、それはいにしえの英雄豪傑であろうと変わりません。斉の桓公の名宰相・管仲を、「中華文明を守った英雄」(論語憲問篇18)と讃えておきながら、ほかの章では平気でこき下ろしています。

挿絵(By みてみん)

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孔子「管仲には大した能が無いなあ。」

ある人「でも家政をビシッと取り締まってはいたんでしょう?」

孔子「それでもおとことして小さい小さい。めかけにしておけばいいものを、管一族の繁栄にあせって、三人も正妻をめとった挙げ句、とても面倒が見きれず、政務を放り出して、やっとのことで家政を治める余裕を作った。まあそれでも、家政取り締まりの原則としての礼は、一応知っていたことにはなるがな。」

ある人「でも礼法破りの門を建て、分不相応の応接間をしつらえました。管仲程度の知識で礼を知っているなんて言ったら、世間の誰もが知っている事になってしまいますよ。」

孔子「ホホホ。それはそうじゃなあ。」(論語八イツ篇22

挿絵(By みてみん)

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有名な「管仲の器は小さきかな」の章ですが、世間の訳とはまるで違います。それは論拠があってのことですが、その詳細をいちいちここでは説きません。興味がある方は筆者のサイトをご覧下さい。ともあれ「理想の宰相だ」と評価し(論語憲問篇17)、自分の憧れでもあった管仲を、孔子は男として格下に見ているのです。

しかし孔子の特筆すべき点は、自分の異性に対する冷淡を、弟子や他人に押し付けなかったことでした。司馬遼太郎作品の中に、「儒者とは好色なものだ」とたしかありましたが、孔子も帝国儒教も、性欲を否定しませんでした。むしろ肯定しました。「先祖の祭祀を子孫に引き継ぐため」という大義名分があったからです。

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しかしそれだけでは、儒教が今日まで生き延びた理由として薄弱です。マニ教のように、かつてキリスト教と拮抗するほどの世界宗教でありながら、滅びた例もあるからです。マニ教の教義は現世否定グノーシスでした。この宇宙を不浄とみなし、その維持につながる性欲を否定しました。だから一時栄えても、綺麗さっぱり消えたのです。

現在では、教義が変形して仏教まがいになったのが、僅かに確認できるだけです。対して儒教が生き延びたのは、中国人を特徴付ける三つの欲望に合ったからでした。だから帝国のイデオロギーとしてだけでなく、民間にも支持母体を持つことが出来たのです。その三つというのは、福禄寿フクロクジュです。福の神の名前になっています。

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福とは子沢山、性欲の満足です。禄とは金が儲かること、寿とは長寿と健康です。中国人とは何かと問われれば、ためらいなく福禄寿の奴隷と答えます。中国人の行動全てが、それで説明できるからです。考古学的時代から、現在に至るまでです。これを知っておかないと、論語ばかりでなく漢籍を、間違いなく読み間違います。

儒教は性欲と同時に、金欲健康欲をも肯定しました。その淵源が孔子にあることは言うまでもありません。「革命闘士が貧乏を恥じるようでは、話にならん」(論語里仁篇9)と言ったことになっていますが、原文の「志」「恥」が孔子の生前にはなく、後世の儒者によるでっち上げです。”お前は貧乏しろ”と言っているのです。

無論”俺は贅沢する”とセットです。儒者のこのすさまじい偽善と強欲を、論語を読むなら覚えておくべきです。帝国の権威によって論語の解釈を決めてきた儒者どもも、儒教に洗脳された日本の漢学教授も、よほど志操が堅固で硬骨漢でない限り、この手の人食いを平気でやるからです。それは現代日本でも変わりません。

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漢学の権威と恐れられた京大のY教授は、最後の儒者を名乗り、変な中国服を着て京都をうろつき、著書の中で、世の中の公務員志望者は図々しいにも程があると説教しましたが、それは京大教授を辞めてから言うべきです。対して藤堂博士が信用できるのは学問はもちろん、主義のためなら東大教授も辞めた硬骨漢だからです。

孔子が弟子に説いたのは、「自分がデキるからといって好き放題すると、足を引っ張られるぞ」(論語里仁篇12)という、地位奪取や金儲けの実践論でした。地位財産を否定しなかったのです。「うまく行かなかったら、その時はのんびり過ごせばいい」(論語述而篇15)という、失敗したときの救済策まで付いていました。

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長寿と健康についても孔子は貪欲でした。白川博士が「最も愚かしい記録」と断じた郷党篇を信用するなら、食事や病気にことのほか気を遣っています。また晩年に衰えたとき、若家老が送ってきた薬を断っています。もちろん暗殺を恐れたからでした(郷党篇12)。さもないと、戦乱の世の政治家や革命家は務まりません。

現代日本でも表沙汰にならないだけで、暗殺は存在します。古代ならなおさらでした。孔子はただ女性に冷淡だっただけで、やはり福禄寿を肯定し後者二つを追求したのです。13年もの間国外を放浪したのは、あくなき禄への執念からでした。ただし孔子はそれ以上を求めました。権力を丸ごと寄こせと要求したのです。

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上述通り衛国滞在中の孔子に、殿様の霊公はポンと現代換算で111億円の年俸を与えました。それでも孔子は満足せず、弟子や子貢商会の手代や丁稚、顔濁鄒親分の手下を総動員して、衛国政界に後ろ暗い陰謀を働きました。「出てって貰おう!」怒った衛の貴族は霊公に詰め寄り、結果おまわりが孔子を監視し始めました。

当然の措置でしょう。「バレたか」と孔子は衛国を逃げ出しています。逆に言えば逃げ出さずにはいられないほどの悪だくみを、衛国で行ったのです。孔子がついに成功しなかったのは、無能のためでも運が悪かったためでもありません。既得権益を丸ごと叩き潰し、世界をひっくり返そうとしたからです。孔子は強欲でした。

その強欲と偽善だけはしっかりと、後世の儒者は引き継ぎました。論語の本章の解釈に、それが現れています。

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賢い人をたっとび、好色の者などを低く見下すがよい。父母に仕える場合には、できるだけその力を尽くし、主君に仕える場合には、できるだけその身を捧げようとつとめ、友人とのつきあいに際して、ものを言っていつわりがないようならば、たとえ当人が学問をしていないといっても、私は彼が学んだのだと認めてはばからない。

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本章の「賢賢易色」の解釈は、古来難解ゆえに儒者が勝手な想像を垂れ流してきましたが、さすがの藤堂博士もこれには毒され、”色事禁止”と訳したわけです。しかし違います。「賢賢」は賢者を尊ぶでかまいませんが、色とは表情のことです。賢者に出会えることはめったに無い。だから態度を改めろと子夏は言ったのです。

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賢者を敬う時には表情を落ち着け、父母に奉仕するには力の限りを尽くすことができ、主君に仕えるには身を捧げることができ、友人と交際するには言葉に嘘がなければ、その人に学問知識が無くても、私はその人を学問を修め終えた人と必ず言う。

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本章を”色事禁止”と言い出したのは、偽善と強欲ばかりしていた後漢帝国あたりの儒者と、軍国主義為者でまぢキチの朱子でした。彼らはすでに聖典として確立していた、論語の本文そのものには手を付けられませんでしたが、その代わり論語の解釈権を独占することで、彼らの福禄寿増大をたくらんだのです。

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皇侃オウガン「賢賢易色というのは、およそ人間というのはどいつもこいつもど助平の上に、賢者を尊ばない。仮にとある人がおのれの助平を叩き直し、賢者を好むなら、つまり賢者を尊ぶ事になる。だから賢賢易色と言うのだ。」

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朱子「賢者はその賢さでもって、自分の助平心を叩き直せたので、善を好み誠実さがあるのだ。」

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皇侃に代表される、およそ南北朝までの儒者が論語に付けた注を古注と言い、南宋の朱子が書いた注を新注と言いますが、彼らの説には何一つ根拠がありません。ただのデタラメです。そして皇侃は『梁書』『南史』を見ても中世の闇に紛れて人物像が不明ですが、朱子はよく分かっています。源頼朝などと同世代の人物です。

朱子は並外れたど助平でした。確認できるだけでも息子三人、娘五人の子だくさんです。当時の儒者として妾がいなかった可能性はほぼゼロですから、何人の子を産ませていたか想像も付きません。そのド助平が、他人には色事禁止と説教したのです。そして朱子は新儒学の開祖として、江戸の日本や明清帝国で尊崇されました。

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図らずも、日中で朱子学を強制した権力者はよく似ています。中国で強制したのは明の開祖洪武帝で、空前の大虐殺を行った暴君です。日本で強制したのは松平定信で、全国にチクリ屋をばらまいて気に食わぬ者を追い詰めて死なせ、趣味は夜中一人で没収したエロ本を楽しむことでした。目がうつろな真正のき○がいです。

二人に共通する、こういう首がひょろ長くて口がとんがった人相を、易学では長頸長喙チョウケイチョウカイの相といい、弱いうちはひたすら卑屈だが、強くなると手のひらを返して残忍になる、とされます。中国史で有名なのは、他に越王勾践コウセンがいます。易の警告を聞き入れた軍師范蠡ハンレイは逃げ延び、無視した宰相文種は殺されてしまいました。

もはや事実だけで十分でしょう。儒教は邪教に他なりません。親や目上への奴隷的奉仕を強制し、従わない者は権力者の気分次第で殺してもかまわぬと言うのが教義です。世界で人間の資格があるのは中国人だけで、異民族は一つ残らず蛮族であり、どんなに差別しようとかまいません。儒教に毒された国は必ず発狂します。

日本帝国のイデオロギーは神道ではなく、儒教でした。神主の教養があまりに足りなかったのと、帝国の支配イデオロギーにするには、神道の教義も神話も、あまりに素朴だったからです。明治天皇の側近として、国家神道や対外覇権の思想を日本にばらまいたのは、幕末の儒者上がりの男でした。これも真正のき…です。

あまりにき…なので、明治政府が首にしたほどです。しかし男がばらまいたき…のタネは、日本各地で芽吹いてき…神主や儒者を生み出し、普通の日本人を地獄の戦場に送り出し、東大法学部ではき…の教授が、明治から大正頃までき…の国家論を学生に講義して、続々とき…の高級官僚を生産していました。

そして日本帝国は発狂し、一旦滅んで米国の属国に落ちぶれたのです。

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またお目にかかりましょう。みなさん、ごきげんよう。カーラでした。

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