論語ものがたり:第五話 曽子は学者ではなく下男だった

曾子そうしいはく、われ日に三たびが身をかへりみる。人のためはかまごころならざる朋友ともと交り而まことならざる乎、習はざるをつたふる乎。(論語学而篇4


挿絵(By みてみん)

みなさんこんにちは。カーラです。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

さて今回は、孔子の教説のうち孝行の後継者と言われる、曽子の発言を取り上げます。曽子、本名は曽参ソウシン、あざ名は子輿シヨ。あざ名とはいわばペンネームで、自分で名乗ったり師匠に貰ったりします。普通はあざなと書きます。たいていは本名と呼応させた字を付けると白川博士は言います。ところが曽子はそうではありません。

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参とは三本のかんざしが原義です。輿とは、かついで乗るかごや車、あるいは万物をかついでいる大地を言います。全然関連がありません。子路、子貢シコウ冉有ゼンユウといった主要な弟子は、みな呼応しているのにです。一門の中で最も優れた弟子とされる顔回・子淵でさえ、回=うずまきと、淵=渦巻く水たまり、と呼応しています。

たぶん曽子の字は、後世のでっち上げでしょう。呼応しない上に、大地の如き偉大なお方、を意味するからです。先ほどから曽子と呼んでいますが、これもおかしな話で、○子は孔子のように、開祖級の偉大な先生に対する敬称です。一門の中でも年齢的にハナ垂れガキに過ぎない曽子が、どうしてここまで偉いのか。

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通俗説では、曽子は高祖の教説の核心の一つ、孝行の修業に励み、ついに『孝経』を著して儒学の確立に大きな功績があったからだとされます。しかしこのホラは、どこか足りない漢学教授ですら、さすがに真に受ける人はほとんどいません。『孝経』なる書物は、帝国の儒者官僚によるでっち上げとほぼ学説が固まっています。

挿絵(By みてみん)

これは「孝経伝曽」というタイトルの洗脳絵で、曽子が孔子から孝経を授かったという、通俗説から見てもトンデモな場面です。まん中にいるのが孔子、その左側で、他の弟子とは違う偉そうな服を着ているのが曽子です。さらに洗脳話では、『孝経』に触発された善男善女が出たとされます。曽子もその一人と言うのです。

それは笑い事では済まされない、狂気の沙汰でした。親の薬代のために我が子を生き埋めにしたとか、親が蚊に食われるのに忍びなくて、自分が素っ裸になって蚊を招き寄せたとか、真冬にタケノコを食いたがる親のために、雪が降り積もった山奥へ遭難も恐れず堀りに駆け出すとか、気の狂った孝行話がまとめられました。

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いわゆる『二十四孝』です。一旦これが正義になってしまうと、やらない者は悪党扱いされたのです。しかも筆記試験で役人を作用する以前、漢帝国の役人には「孝行者採用枠」というのがありまして、一旦これに通りさえすれば、仕事はやらず放題、民はいたぶり放題、ワイロは取り放題のウハウハ生活が待っていました。

“子が欲しけりゃ、また作りゃあいいじゃん”が、中華風味の合理主義だからです。それが自然科学的にあまり間違いとは言えないのが、なんとも救いの無い話です。だからその子作りも、中国人は平気で笑い話の種にしました。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

天の神が、下界を視察していた。するとある家で夫婦がナニを行っている。不思議に思った天の神が、部下であるかまどの神に質問した。

天「何をやっとるのじゃ、あれは。」

か「子を作っております。」

天「ほう。で、年にどれほど作るのじゃ。」

か「だいたいは一人でございます。」

天「なら、あんなにせわしく動くことも無かろうに。」(『笑府』)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

しかしバカげた孝行は特に後漢帝国で真に受けられました。開祖の光武帝が、札付きの偽善者だったからです。光武帝は気さくな名君と伝わりますが、ごますりです。気に食わぬ家臣はたとえ筋が通っていても、手ずからぶん殴って半殺しにしています。姉の身勝手のために、家臣の家庭の平和もブチ壊そうとしました。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

話を曽子に戻せば、彼は孔子没後、一門を二つに割った主要派閥の一方の総帥でした。もう一方は子貢シコウ派です。子貢は年長組の生き残りでした。少なからぬ年長組が、孔子の革命運動にたおれたからです。一番弟子の子路が有名で、隣国の政争に巻き込まれて命を落としました。年長組は、孔子の私兵でもあったからです。

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孔子は決して、人がいいだけのおじいさんではありません。世界をひっくり返そうとする野望を抱き、悪どい陰謀にも手を染めています。孔子と入れ替わるように戦国の世を生きた諸子百家の一人、墨子の証言を聞いてみましょう。

挿絵(By みてみん)

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孔子が隣の大国・斉に行って、殿様の景公と会見し、気に入った景公は尼渓ジケイを領地に与えようと思った。それを家老の晏子アンシに告げると、晏子は反対した。…というわけで孔子への礼儀を丁寧にし、与えた領地に止めて敬いはしたが、会見してもものを尋ねなくなった。

孔子はみるみる不機嫌になって、景公と晏子を怨んで、皮袋を家老の田常の屋敷の門にぶら下げ、南郭恵子に「用事がある」と言って魯に帰ってしまった。しばらくして斉が魯を攻撃しようとすると、孔子は子貢に言った。「子貢よ、名を挙げるのはこの時だぞ!」そして子貢を斉に行かせた。

子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、田常の斉国乗っ取りの陰謀を、家老の高・国・ホウ・晏氏が阻止出来ないように仕向け、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(墨子非儒篇

挿絵(By みてみん)

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ここで大活躍していることから分かるように、子貢は一門きっての出来る男でした。政治も出来るし外交もうまい。特筆すべきは金儲け=バクチのハンパない才です。どうやら孔子塾の財源や、革命活動の資金を、子貢が稼いでいたようです。従来の解釈では、論語で子貢は孔子に叱られてばかりいるにもかかわらずです。

でも実際は、孔子さえ頭が上がらない金主でもありました。

挿絵(By みてみん)

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子貢ときたら、やめいと言うのに金儲けがうまい。バクチを張ってはしょっちゅう当てている。

…その金で今まで何とかなってきたから、何も言えんわい。(論語先進篇18)

挿絵(By みてみん)

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大勢の人を動かす政治には、莫大なカネがかかります。人は結局、金でしか動かないからです。恐怖の独裁者スターリンが権力を握れたそもそもの理由は、革命前の資金稼ぎを引き受け、何度も列車強盗で金を持ってきたので、同志は頭が上がらなかったからです。豊臣秀吉がキンくばりで、かつての主君筋をも黙らせたのと同じです。

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子貢も革命運動の資金を稼いだというのですから、生半可な金持ちではありませんし、並大抵のバクチ打ちではありません。ゆえに孔子没後、政財界で最も成功していたのは子貢でした。費用を全部負担して、盛大な孔子の葬儀を行ったのも、諸侯国に招かれて、首相を務めたとはっきり記録にあるのも子貢だけです。

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対して曽子は、バカでした。孔子は曽子を名指しで「ウスノロだ」と言っています(論語先進篇17)。体も弱く、仕事も無能だったので、孔子家の下男以外、生涯どこにも就職できませんでした。せめて人柄が普通なら救いがあったのですが、それもダメでした。成功した子貢をねたみ、悪口ばかり言いふらしたのです。

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第二話で、中国人は君子だろうと、優遇されなければ人を怨んでも恥と思わないと申しました。その典型例が曽子です。これは現中国の開祖である毛沢東も同じで、外国語が出来ない事をひがみ、出来る劉少奇を凄惨なリンチでなぶり殺し、夫人をさらし者にし、周恩来の娘もいじめ殺しました。歴代の党首席も大同小異です。

曽子は真面目な弟子でもありませんでした。後世、先生呼ばわりされたのに、孔子との対話が全く記録にありません。ただ一つの例外は論語里仁篇の記述だけです。

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子曰、「參乎。吾道一以貫之。」曾子曰、「唯。」子出、門人問曰、「何謂也。」曾子曰、「夫子之道、忠恕而已矣。」

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孔子「曽子よ、私の道は一つで、それでずっと貫いているのだ。」

曽子「はい。」

先生は黙って部屋を出た。

門人「曽子さん、先生は何て言ったんですか。」

曽子「先生は、自分の生涯を真心と思いやりで貫いた、と仰ったんだ。」(論語里仁篇15

挿絵(By みてみん)

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なんだか曽子がとっても偉い人みたいですね。自分だけが先生を理解している、みたいな。でもこれは下手くそな芝居です。まず「貫」の字が孔子生前にはありません。「恕」の字もそうですが、これは「如心」と二字で書いた可能性がまだ残っています。しかし「貫」の字にはその可能性が全くありません。儒者の捏造ネツゾウです。

曽子をえらく見せかけるための、です。すると曽子と孔子の対話は皆無と言えます。これは第三話の有若と同じ、いずれか三つの結論しかありません。そもそも曽子が架空の人物か、曽子は孔子の弟子ではなかったか、弟子でも教わってメモも取らないような不埒フラチな弟子だったかです。おそらく直弟子ではなかったでしょう。

曽子は一門の年少組で、有力弟子の子張とほぼ同世代なので、直弟子の可能性はありますが、これまで見たように証拠がありません。ただし孔子に先立った孔子の一人息子、孔鯉の息子の子守をしていました。つまり孔家の下男です。下男のひがみで、同世代でありながら颯爽として活躍する子張を見て、妬んだのでしょう。

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こういう男には、情けなんてありゃしない。(論語子張篇16

挿絵(By みてみん)

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こんな事を言うから、主人の孔子に「ウスノロだ」と言われてしまったのです。下男が悪いとは言いません。下男も立派な仕事です。ただしまじめに務めたらの話です。ひがむ者は心が卑しいと言われても仕方がありません。それも胸の内に止めているなら立派です。しかし口に出してしまえば、その時点でおしまいです。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

さて孔子が亡くなり、孔子の孫だった子思も成長し、曽子にはひまが出される筈でした。ところがここで歴史の番狂わせが起こります。全中国を自分の計画通りに支配した始皇帝が、没後に帝国を奪われたのと同程度にです。子思が儒家の宗家となり、かつてウンチの世話をして貰った曽子を、大先生として拝んだからです。

これには事情があります。子思の祖父は当然孔子で、父は孔鯉です。孔子はなぜかこの一人息子を愛しませんでした。通り一遍のことを教えるだけで、後継者に据えようとはしませんでした。世襲ばかりの春秋時代に、孔子の革命家としてのすごみが見えます。その結果、孫の子思にもまともな儒学の知識がありませんでした。

よい家庭教師も付けて貰えませんでした。だから下男の曽子だったのです。

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ともあれ子思は世襲しました。当時の常識に戻っただけですが、政財界に地位を築いた子貢派はどうなったのでしょう? 実はとっくに解散していました。権力も金もあるのに、誰が貧乏くさい塾の先生なんかしたがるものですか。孔子の直弟子だった子貢はともかく、その後継者は笑いながら派閥を解散したはずです。

それを証拠立てるように、子思はその日のご飯にも困って、決して豊かでは無い宋国へ流れていき、苦しい生活を送ったと『史記』にあります。困った曽子はご本尊の子思を留守番にして、首から頭陀ズダ袋をげ、かつての有力弟子のところへ物乞いの旅に出ました。しかしそれまでさんざん悪口を言ったツケを払わされます。

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恐らく門番に叩き返されたのでしょう、もと子貢派、そして子張派への物乞いは成功しませんでした。仕方なく遠い魏国で塾を開いていた、子夏の元を訪ねます。子夏は丁度子供を亡くし、その悲しみから失明してしまいました。それを見た曽子、卑しい性根でタカリの手段を思いつきます。まずねんごろに慰めておき。

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子夏が泣き出すとコロリと態度を変え、「お前が情け知らずだからこうなったんだ。全部お前のせいだ!」と怒鳴り上げました。心が弱っていた子夏はうろたえて、その通り、その通りと謝りました(『礼記』)。これで一丁上がりです。曽子はなにがしかのカネを、子夏からせびり取って帰ったはずです。

曽子がバカだったこと、人間的に卑しかったこと、つまり先生呼ばわりされるような人物でなかったことは、これで十分分かるでしょう。論語の本章も、全部後世の儒者官僚のでっち上げです。なぜ曽子がこれほど祭り上げられたかは、機会を改めて申し上げます。というわけでついでながら、今回の日本語訳を記します。

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曽先生のお説教。「我が輩は毎日三つのことを反省しておる〔=三省〕。誰かの相談に乗ってやって、心にもないことを言わなかったか。友達づきあいで約束を破らなかったか。自分に出来もしない事を、偉そうに誰かに講釈しなかったか。お前らもそうでなくてはいかん。」

弟弟子一同「「「おまいう」」」

挿絵(By みてみん)

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三省堂書店は気の毒です。全面的な誇りを持って、そう名乗ったに違いありません。しかしその曽子がクズで言葉もニセモノとなると、日本の辞書の本家本元でありながら、とたんにマヌケな印象が浮かんでしまいます。人名やペンネームで、論語からとった例は沢山ありますが、知ったかぶりで使わない方がいいでしょう。

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これがでっち上げと断定できるのは、原文にある「忠」の字です。この漢字=言葉は、孔子の生前や直後には中国語にありません。忠は戦国諸国が軍国主義にならざるを得なくなってから、儒者がこしらえた洗脳装置であることは、すでに申し上げた通りです。チューとあったらニセを疑え。それがが論語を読むための鉄則です。

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曽子を神格化したのは、たぶん曽子自身ではなくその系統を受け継いだ孟子あたりでしょう。曽子にそんな学才があったわけがないですから。それに曽子は素材としては都合が良すぎました。下男ですから何一つ伝説が付いていないからです。つまり後世の者が勝手なあれこれを貼り付けるのには都合が良かったのです。

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それに曽子を孝行の大家にしたのは、孟子のいかさま師としての目の付け所がよかったと言っていいでしょう。誰もが学者に向いてはいませんが、孝行は気持一つで、どんな人でも出来るからです。学問の開祖はワシがなる、素材の曽子は孝行の親分でもやってろ。そんなところでしょう。ワルい男です。

出来の悪い教師や親が、亡くなった人に見習えとやたら持ち上げるのに似ています。九分九厘の人間に伝記なんかありませんから、言った者勝ちでどうとでもできます。それを真に受けさせられる子供は気の毒ですが、大の大人が真に受けるなら、それはもう当人のうかつです。事情は論語も変わりません。

人は誰でも自分が一番可愛い。親子も例外でない。その覚悟を決め、さてどう人を愛そうか、と考えるのがまっとうな思考です。始めから他人をあてにしては失敗するでしょう。まして洗脳して食い物にするなど、人間のクズのすることです。忠君愛国をすり込まれ、かつて日本人は立派な人から先に死んでしまいました。

挿絵(By みてみん)

かつての間違いから目をそらさず、二度とあのような悲劇を繰り返さないこと。それは孔子の時代も今も通用する原則だと確信します。「間違いに気付いたら、改めるのを恥だと思うな」(論語学而篇8)。現代人が論語を読むとは、決して儒者や漢学教授や、ましてカルトや悪党の言いなりになることではありません。

時という逆らいようがない力によっても、なお原則であり続ける原則を確認すること。それを自分の武器として手に入れること。それが論語に限らず、古典を読むメリットです。もちろん、暇つぶしでもいいでしょう。ガチャやパチ屋で大金を使うより、よほどお金がかからず、そして自分の武器を拾えるいい機会だからです。

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このものがたりが、みなさんのよき機会でありますよう。カーラでした。

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