論語ものがたり:第二話 君子は無名を怨んでもいい

いはく、まな時にこれ習ならふ、おほいよろこばしからず有朋とも遠方自きたる、亦いにたのしからず乎。人知らずし而慍いからず、亦いに君子ならず乎。

(論語学而篇1)


挿絵(By みてみん)

みなさんこんにちは。カーラです。早速前回に引き続き、論語の第一章を字引きしていきます。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

これは「有朋」の金文です。伝統的な読み下しでは、二文字で「ともあり」と読みます。しかし古い論語の刻石では、「友朋」となっていました。音が同じ「ユウ」なので、聞き間違えて書き間違えたのです。「友」は互いにかばい合う仲間、「朋」は同じ月が並んでいるように、対等の友人のことです。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

これは「自」の金文です。”…から”を意味します。もとは鼻の象形でした。発展して自分で自分の鼻を指さすことです。すなわち自分を意味しました。さらに自分の指先から始まることから、”…から”を意味しました。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

これは「遠方」の金文です。”遠い地方”を意味します。「遠」の語源ははっきりしません。「方」の語源も意見が分かれています。白川博士は”中国の国境に晒した異民族のいけにえ”だと言います。ただし根拠があるわけでは無いようです。漢字の語源など、多くはもう探りようも無いからです。

挿絵(By みてみん)

これは「来」の金文です。もとはイネ科の穀物の姿でした。それは「ライ」と呼ばれていました。それが”来る”の意味になったのは、ライの音は”来る”も意味していたからです。しかしイネ科を描くのは簡単でも、動詞の”来る”を描くのは大変です。一目見て誰もが”来る”だと思わなければ、意味が無いからです。

“来る”はとうとう、誰もが認める幅広い支持を集める絵文字が作れなくて、そうこうするうちに音だけ借りて「来」の字で”来る”を意味させる習慣が定着してしまいました。こういう漢字を仮借カシャ文字といいますが、音が通じる別の漢字の形を、「りて借りる」ことです。

挿絵(By みてみん)

これは「楽」の金文です。語源は諸説ありますが、手持ちの、棒の先に鈴を付けた楽器と考えておきましょう。ゆえに原義は”音楽”でした。それが”楽しい”の意味になったのは、たとえ好き嫌いはあり得ても、音楽そのものが嫌いな人間は、おそらくただの一人もいないからです。

挿絵(By みてみん)

さて第二句を引き終えました。「有朋ともの遠方り来たる、おおいに楽しからずや」。同じ孔子塾で学ぶ友達が遠方より来たことは、たいそう楽しいことではないか。孔子はそう言ったのです。

「ふ~ん」でしかないかも知れません。しかし論語の時代としては重大なことでした。そもそも旅が危険だったから、ということもありますが、当時の中国は日本の戦国時代のように、各地に諸侯が国を立てて、相互に争っていたからです。従ってさまざまな国の出身者が、一つ場所に集まるのは珍しい事でした。

挿絵(By みてみん)

孔子が生まれ育ち、また塾を開いたのは、画面右上のの国です。画像では分かりにくいですが、華北平原のど真ん中にあって、広大な平原で唯一そびえる泰山の南のふもとにある、文化程度の高い由緒ある国でした。ただし国は小さくて、東のセイ・西北のシン・南のおびやかされていました。

のちに強大となるシン国は、まだ西の辺境の発展途上国に過ぎません。

挿絵(By みてみん)

しかし孔子はどこの出身だろうと、差別しないで受け入れました。また古代ですから奴隷制度があり、奴隷でなくとも人は身分制度の中で生きていました。しかしこの身分についても、孔子は差別しないで誰でも受け入れました。そもそも孔子が、占い師のシングルマザーの子という、底辺の出身でした。

挿絵(By みてみん)

孔子は父を知りません。物心つく頃にはすでに死去していたと言われますが、たぶん違うでしょう。母親すらも、誰が孔子の父親か確信は無かったはずです。有名な『史記』に孔子の生誕を「野合」というのはそのためです。古代文明圏のいずれでも、巫女は娼婦を兼ねました。孔子の父は客だったのです。

どんな客だったのでしょう。たぶん魯国軍の下士官だったはずです。孔子は平民の出でありながら、教えられるほど弓術と馬車術に長けていました。どちらも古代では軍事機密ですから、普通はあり得ないことでした。軍人の忘れ形見だったからこそ、父の戦友たちに兵営で稽古を付けて貰えたのです。

挿絵(By みてみん)

当時の戦争は戦車戦です。車長を車左と言って、指揮と弓で遠距離攻撃を担当しました。車右が持っているのはカマ状のほこ、です。これですれ違いざまに、敵戦車兵を引きずり下ろし、首を刈りました。御者を含めて三人とも、最下級ではあっても貴族です。貴族は戦士とイコールなのです。

なぜかと言えば、サスペンションもない揺れる戦車上で弓や戈を扱うことも、馬車を操縦することも、農作業をしなくて済む貴族でないと、訓練の時間が無いからです。孔子の父が最下層ながら貴族であったことは、『史記』なども怪力無双の軍人だったとして紹介しています。孔子は体育会系でした。

ただし占い師の子ですから、読み書きも教わりました。これは古代にあっては珍しい現象で、貴族や僧侶でない限り、文字が読めるなどあり得ないことでした。もっとも古代の中国では、占い師が僧侶を兼ねていましたから、その意味では当然でもあります。それでも貴族ではなく、平民の最下層扱いです。

孔子が言ったのは、こうした身分も出身国も違う互いに若い塾生たちが、互いの珍しさに惹かれる楽しさでした。千年も生活が変わらないような、閉じたムラ社会ばかりだった当時、「こんな面白い奴」に若者が出会える場は、孔子塾の他には周王朝の都に留学するか、山賊に入らない限りほぼ皆無だったのです。

挿絵(By みてみん)

話を続けましょう。論語第一章の最後の句、「人知らずしていからず、おおいに君子ならずや」です。

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これは「人」の金文です。白川博士が「人は支え合っていない」と言い出してちょっとした物議を醸しました。「互いに支え合って人という字」という、お手軽なお説教話に水をぶっかけ、人を横から見た姿だと言ったのです。古い書体を見る限りその通りです。「誰がいい話にしろと」とはこのことですね。

そして次の「知」の字がやっかいです。

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これは現在発掘されている最古の知の字です。ただし年代は戦国時代の末で、論語の古さには200年の開きがあります。しかも「智」の字の形です。すでに知が部品化されていることから、もう少し早い時代に知の字はあったと推測できます。しかしそれでも出土しません。”しる”という基本的な言葉なのにです。

当然孔子の生前にも、”知る”という言葉はありました。しかし一字=一言では言いませんでした。おそらく「止心シシン」=心に止める、と言った筈です。そこへ孔子が、「知」という言葉を発明したのです。当時の人にとって、それは聞き慣れない言葉でした。だから一番弟子の子路に説明したのです。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

子路「先生、その”ち”って何ですか。ぢの軽いやつですか。」

孔子「バカモノ! 知ってることを知ってると認め、知らないことを知らないと認めることじゃ!」(論語為政篇17)

挿絵(By みてみん)

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論語の名言、「知るを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。これ知るなり」の大幅な意訳ですが、単に”知ったかぶりをするな”というお説教ではありません。知ったかぶらない実直な人にとっても、「知」は聞いたことの無い言葉だったのです。だから発明者の孔子は、説明しないわけにいかなかったのです。

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これは「ウン」=”怒る”の古書体です。右は心臓、左は火に掛けられた、蓋で閉じられた鍋です。煮えたぎる鍋のように、カッカとする心を意味します。論語の時代には部品を左右ではなく、上に鍋、下に心臓を描きました。群=羣と同じ理屈です。

この文字は一般的に、「うらむ」と訓読されています。しかしもともとそんな意味はありませんでした。論語は最古の古典です。漢字=言葉の最古の意味で理解できるなら、それに従うのが正解です。つまり意味は”怒る”です。一体何に怒ったのでしょう。従来の解釈は「不知」=自分の無名に対してでした。

しかこれはもってまわった、ひねくれた解釈です。「不知」とあるからには「知」でないことです。つまり”知らない”ことでしかありません。論語のどこにも、「自分を」知らない、とは書いてありません。すると何に怒るかは、自分の無知か、他人の無知でしかあり得ません。

自分の無知に怒らない人はどうなるでしょう。当然ですが勉強しません。塾の先生だった孔子が、さすがに「勉強しなくていいよ」とは言わないでしょう。すると「不知」とは”他人の無知”です。怒るのは「こんな事も知らないのか!」といういらだちです。それに怒らない人が「君子」だと孔子は言うのです。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

「君子」とは何でしょう。前回を思い出して下さい。「子」とは王子のことでした。そして「君」とは君主のことです。つまり君子も貴族を意味します。論語での意味は三通りで、貴族一般を指す場合、貴族では無いが教養人を指す場合、そして「諸君」という、孔子の弟子に対する呼びかけです。

すると論語第一章の最終句、「人知らずしていからず。おおいに君子ならずや」とはどういう意味でしょう。”塾生仲間の無知にいらだたない。それこそが教養人というものだよ”という孔子のお説教です。孔子は好き好んでお説教したのではありません。これをよく言い聞かせないと、血の雨が降るからです。

孔子塾に入ってくるのは、勉強して身分差別を抜け出し、最下層とは言え貴族の一員である士族になるのを目指す平民の若者でした。いわば飢えたオオカミです。その上孔子塾では武芸の稽古も行っていました。そうでないと将校として前線に出られないからです。おや? 日本の幕末にもよく似た集団がいましたね。

そう、新撰組です。ほとんどは百姓の次三男坊でした。あとを継げる農地も無い。新撰組に入って危ない仕事に精を出すことで、武士に成り上がろうとしたのでした。そして新撰組はたびたび、凄惨な内ゲバと粛清を繰り返しました。それで半ば自滅したのです。近藤さんが放置したからでしょう。

挿絵(By みてみん)

新撰組がそうできたのは、会津藩・京都守護職という権力の裏付けと、戦闘力の保持という目的がありました。孔子塾は違います。裏付けは孔子の個人的能力でしかないのです。そこで塾内でいじめを煽れば、あっという間に塾は崩壊です。ですから孔子はいじめの種を見つけるや、すぐさま火消しにかかったのです。

挿絵(By みてみん)

子路「ジャジャジャーン!」

孔子「これ子路や。お前の琴はひどいもんだな。どっかよそで弾いてくれんか。ウチの恥になる。」

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

弟弟子1「子路さんってぼんくらだよね~。」

弟弟子2「ね~。」

孔子「こりゃお前たち。子路は基礎は出来ておるんだ。奥義を知らないだけだぞ。」(論語先進篇14)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

孔子塾ではいじめは絶対禁止。この原則は論語の中で一貫して貫かれています。言い換えると、これに反する解釈は、論語を誤読しているか、そもそもその言葉が捏造です。中華帝国の儒者官僚か、派閥抗争に明け暮れるただの儒者か、いずれかによるでっち上げです。その数は論語の半分に及びます。

呆れるしかありません。論語の半分はニセモノなのです。儒者は開祖の孔子に、自分たちだけが儲かるような洗脳の言葉を、これでもかと語らせています。開祖を微塵も尊敬していません。しかし悪いとも思っていません。中国人にとって、自分以外の一切は、自分のための素材に過ぎないからです。

孔子という都合の良い道具がある。利用して何が悪い、というのです。中国人は数千年前の昔から、それぞれが自分の足下を軸に地球は回ると思っていました。だからこそ世界の古代文明の中で唯一、滅びもせずに現在まで続いてきたのです。日本人とはまるで考えが違うのです。

だから自分が優遇されないと、平気で人を怨みます。従来の解釈、「人に知られないのを怨むな」は明白に間違っています。そうでなければ、孔子も弟子も揃って、次のようにブツブツと感激や不平を漏らすのはおかしいでしょう。

挿絵(By みてみん)

大宰知我乎。”宰相殿は私を理解している!”(論語子罕篇6)

不吾知也。”私は誰にも理解されない!”(論語先進篇25)

莫我知也夫。…知我者,其天乎。”私の理解者はいない。…理解者は、天だけだ。”(論語憲問篇37)

莫己知也。”私は理解されない。”(論語憲問篇42)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

例え君子だろうと、理解されなければ、平気で人を怨んでかまわないのです。日本人なら「大人げない」と思いますが、中国では全然恥ではありません。もし論語を読むことに、現在も意味があるなら、それは中国人が分かることです。

挿絵(By みてみん)

それでは次回お会いしましょう。みなさん、ごきげんよう。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。朴ったら○すぞ。それでもやるなら、覚悟致せ。



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