論語における「我」と「吾」、子罕篇「我叩其兩端而竭焉」の解釈について

用例

  1. 曾子曰:「日三省身:為人謀而不忠乎?與朋友交而不信乎?傳不習乎?」
    *吾:主格/所有格
  2. 子貢曰:「不欲人之加諸也,亦欲無加諸人。」子曰:「賜也,非爾所及也。」(公冶長)
    *我:主格/目的格 *吾:主格
  3. 季氏使閔子騫為費宰。閔子騫曰:「善為辭焉。如有復者,則必在汶上矣。」(季氏)
    *我:目的格/目的格 *吾:主格
  4. 子謂顏淵曰:「用之則行,舍之則藏,唯與爾有是夫!」子路曰:「子行三軍,則誰與?」子曰:「暴虎馮河,死而無悔者,不與也。必也臨事而懼,好謀而成者也。」(述而)
    *我:補格 *吾:主格
  5. 子曰:「二三子以為隱乎?無隱乎爾。無行而不與二三子者,是丘也。」(述而)
    *我:目的格 *吾:主格/主格
  6. 大宰問於子貢曰:「夫子聖者與?何其多能也?」子貢曰:「固天縱之將聖,又多能也。」子聞之,曰:「大宰知乎!少也賤,故多能鄙事。君子多乎哉?不多也。」(子罕)
    *我:目的格 *吾:主格
  7. 子曰:「有知乎哉?無知也。有鄙夫問於,空空如也,叩其兩端而竭焉。」(子罕)
    *我:目的格/? *吾:主格
  8. 顏淵喟然歎曰:「仰之彌高,鑽之彌堅;瞻之在前,忽焉在後。夫子循循然善誘人,博以文,約以禮。欲罷不能,既竭才,如有所立卓爾。雖欲從之,末由也已。」(子罕)
    *我:目的格/目的格 *吾:所有格
  9. 子曰:「回也非助者也,於言無所不說。」(先進)
    *我:目的格 *吾:所有格
  10. 陽貨欲見孔子,孔子不見,歸孔子豚。孔子時其亡也,而往拜之,遇諸塗。謂孔子曰:「來!予與爾言。」曰:「懷其寶而迷其邦,可謂仁乎?」曰:「不可。」「好從事而亟失時,可謂知乎?」曰:「不可。」「日月逝矣,歲不與。」孔子曰:「諾。將仕矣。」(陽貨)
    *我:補格 *吾:主格
  11. 公山弗擾以費畔,召,子欲往。子路不說,曰:「末之也已,何必公山氏之之也。」子曰:「夫召者而豈徒哉?如有用者,其為東周乎?」(陽貨)
    *我:目的格/目的格 *吾:主格
  12. 子夏之門人問交於子張。子張曰:「子夏云何?」對曰:「子夏曰:『可者與之,其不可者拒之。』」子張曰:「異乎所聞:君子尊賢而容眾,嘉善而矜不能。之大賢與,於人何所不容?之不賢與,人將拒,如之何其拒人也?」(子張)
    *我:被修飾/被修飾/目的格 *吾:所有格

語義・語源

『大漢和辞典』

  1. われ。わが。
  2. 相手を信愛して呼ぶ時に添へる語。
  3. 読書の声。
  4. 棒の名。
  5. 梧に通ず。
  6. 虞に通ず。
  7. 鋙に通ず。
  8. 五に通ず。
  9. 童の譌字。
  10. 古は𠮣に作る。
  11. 姓。
  12. 親しまないさま。
  1. われ。
  2. わが。おのれの。
  3. 私意。
  4. うゑる。
  5. にはか。
  6. 古は𢦓に作る。
  7. 姓。

学研漢和大字典

音符五の会意兼形声文字。語の原字だが、我と共に一人称代名詞に当てる。古くはおもに主格と所有格に用い、我はおもに目的語に用いた。ただし「不吾知=われを知らず」のような代名詞を含む否定文では吾を目的格に用いる。 刃がぎざぎざになった戈を描いた象形文字で、峨(ぎざぎざと切りたった山)と同系のことば。昔、「われ」のことをŋaといったので、我の音を借りて代名詞をあらわした仮借文字。吾は、おもに主格・所有格に用いたが、のち我と吾を混同した。私は、公に対する語で、ひそかに、自分だけの意。余(予)は、古めかしい一人称。

字通

五+口。五は木を交叉して器を蓋するもの。口はさい、祝禱を収めた器の形。その器に固く蓋して、祝禱の呪能を守るもので、まもる意。金文には五を二重にした形のものがある。〔説文〕二上に「我自らふなり」と一人称代名詞とする。〔毛公鼎〕に「王身を干吾かんぎょせよ」とあって、干吾は攼敔の初文。吾を一人称に用いるのは仮借。金文の〔也𣪘いき〕に「吾がちち」という語が両見し、所有格の用法である。主格・目的格には我を用いることが多い。 我は鋸刃の刃物の象形で、鋸の初文。義・羲は犠牲としての羊に我(鋸)を加える形。しかし我を鋸の意に用いることはなく、一人称の代名詞に仮借して用いる。〔説文〕十二下に「身に施して自ら謂ふなり」と一人称とし、また「或いは説ふ、我頃、つまづくなり。戈に従ひ、𠄒すいに従ふ。𠄒は或いは説ふ、古の垂の字なり」と字形を説き、さらに「一に曰く、古の殺の字なり」という。卜文・金文の字形は鋸の形で、仮借して一人称とする。鋸はその形声の字で、我の初義を留める字である。

付記

6. 吾有知乎哉?無知也。有鄙夫問於我,空空如也,我叩其兩端而竭焉。(子罕)

「吾知ること有らんや。知ること無きなり。鄙夫有り、来たりて我に問うこと空空如たるときは、我その両端を叩きて竭す。」

私は物事を知っていようが、実は何も知らないのである。しかし、いなか者が私の所へ来て、(なんの心得もなく)うつろなままで私に物事を尋ねたならば、私は、その事の始めから終わりまで、すべてはたき出して、ありたけの知識を教えつくすようにしている(藤堂本)

最終句の「我」は目的格ではないか? だとすると「叩」かれるのは我=孔子で、語順は決定的に重要ではあるものの、ここに限って受け身に読むべきでは?

「鄙夫有りて我に問うも、空空如たり。我その両端を叩かれて竭されなん。」
(田舎者に質問されようと、私は空っぽだ。容れ物の両端をとんとん叩いてはたき出すように、中身はあっという間に尽きてしまう。)

また。

孔子や比較的年配者は、我と吾をはっきり使い分けているが、年少の弟子はあまり気にしていないように見受けられる。

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