吉川幸次郎は漢文が読めなかった

ニセ論語指導士養成講座 論語教育不救機構 吉川幸次郎
令和二年の現在、日本で論語の権威と言えば、全く裏付けの無い資格商売で世間から金を集めている加地伸行でなければ、とっくに死んでしまったが、徴兵を逃げ回って国外逃亡した吉川幸次郎ということになっている。その大部な『論語』は、今でも値が高い。

だが高いからと言って良品とは限らないのは書籍も同じで、そこに記された吉川の訳なるものは、中国儒者が根拠無く書き連ねた個人的感想を、無批判にコピペしただけであり、自分で原文と格闘した結果ではない。しかも吉川は常に「であろう」と言うのみで、断定しない。

つまり代理人に戦わせているボクシング興行と同じで、その上プロレスのように客を楽しませる工夫すらしない。日本の漢学界では長らくこういう不埒なニセモンが、ホンモンとしてまかり通ってきた。格闘技や武道の仕合と違って、誰でも見て分かる風景ではないからだろう。

さらに吉川がコピペした中国儒者の知的程度たるや、「だってそう思ったんだもん」という子供の如き幼稚さで、まるで当てにならないと読めば必ず分かる。だが儒者よりなお幼稚だった吉川は、それゆえ疑わずに取り込んだわけだ。ただし取り込みの仕方には個性がある。

加地もそうだが日本の漢学教授の九分九厘は、論語を訳すに当たって解釈を儒者のコピペで済ませたが、元ネタの儒者にも色々おり、大別すると南北朝までの古注と、朱子の編んだ宋を中心とした新注に分けられる。論語の各章についてどちらをパクったかで、個性が出るわけだ。

古注と新注の違いをおおざっぱに言えば、一番目立つのは古注は長期間の個人的感想の集積ゆえ、恐ろしく大部であり、それに引き換え新注は古注のダイジェストに、若干の個人的感想を加えたのみで、至って分量が少ない。言い換えると、新注の方が圧倒的に読むのが楽だ。

しかも新注は江戸時代の公認解釈でもあったから、各種の解説や返り点を付けた和刻本が出そろっており、大学入試程度の漢文読解力があれば誰でも読める。対して古注にはそんな世話焼き本は少ないから、返り点どころか句読点も無い一つながりの暗号書を読む覚悟が要る
論語義疏 四庫全書版

それを踏まえて吉川本を参照すると、ある傾向があるのに気付く。古注は論語の章によって、べらぼうに量が多い章とそうでもない章がある。そして吉川本では、量が多い章では「新注に従って読みたい」などと書き、新注や『大漢和辞典』のコピペでお茶を濁している。

読めなかった決定的証拠がある。論語子罕篇25につき、吉川は「古注によると本章は古論語には無かった」と書いたが、日中の版本を確認しても、下掲の通りどこにもそのようなことは書いていない。自分で読めず誰かに訳をさせたか、又聞きでデタラメを書いているのである。

古注『論語集解義疏』

子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改註慎其所主所友有過務改皆所以為益者也疏子曰至憚改 此事再出也所以然者范寗云聖人應於物作教一事時或再言弟子重師之訓故又書而存焉

本文「子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改」。
注釈。仕える相手、付き合う相手を慎重に選び、間違いがあったら改めるよう努めることは、全て向上する原動力である。

付け足し。先生は改めるのを嫌がる極致を言った。本章は重出である。そうなった理由について范寗が言った。「聖人は相手によって教え方を変えた。同じ話を場合によって繰り返した。弟子は先生の教えを尊んで、だからもう一度書き留めたのだ。」

これはものすごく世間をバカにし切っていないと出来ないことだ。どうせ古注など読む者はおらん、論語について我が輩に逆らう者はおらん、ということで、一般人は無論、同業者も馬鹿にしている。「デタラメ言うな」と学界で叩かれるとは全く思わなかったのだろう。

だから冷静に考えても、吉川は脳に障害があったとしか思えない。でないと京大教授という公務員でありながら、「官職に就こうとする者には遠慮が必要である」と説教したり、「ボクのような教養を持たない人間は、人間ではない」と書くなど、狂気と解してのみ説明が付く。

入試に指導要領を大幅に超える難問を出して、受験生が出来ないと得意がるなど真正のサドで、渡航制限の厳しい時代に、用も無いのに渡米しそれを自慢して回り、著作では、一般人にはコケ脅しで、玄人には噴飯物の唐音発表されたばかりのピンインを振り回しもした。

ここで一つの疑問が生ずる。そんなに古注が読みにくいなら、新注だけ引用すればいいではないか。ところがそうは問屋が卸さない。「古注を読んでいない」と悪口を言われると、漢文が読めないのがバレてしまい、大学教授やら学界の権威やら、世間師の興行に差し障りが出る。

もう一つの事情もある。新注は確かに量は少ないが、そこに言葉が載った宋儒はどいつもこいつも、黒魔術を儒教に持ち込んだ張本人で、時折譫妄状態でものを言う。現代日本で例えるなら、雑誌『ムー』なんか毎月熱心に読んでいる中二病患者で、およそまともな神経ではない。

新注『論語集注』

これは原理と実体を言い表した話である。…その窮極に至れば、原理と一体化して終わりが無い。…原理と一体化すれば終わりが無く、一体化に終わりが無くなったのが、すなわち天の徳に他ならない。天の徳を備えていることが、王道を語る条件である。」(論語子罕篇17)

愛すればこそ苦しめる。そうすれば愛は深まる。真心があるからこそ無知を教えてやる。そうすれば真心は一層偉大になるのだ。(論語憲問篇8)

つまり何が書いてあるかは分かっても、何を言っているのかさっぱり分からない事が、新注には平気で書いてある。そこを何とか格闘して読み破るのが専門家だが、吉川にはそんな格闘をした形跡が一切無く、そんな時には新注以外をパクった。要するに漢文が読めなかったのだ。

その理由は明らかで、吉川の頭が悪いからだが、頭が悪い理由も明白で、敗戦直後まで東大だろうと、文学部は事実上無試験だったからだ。制度上、旧制高校の卒業者数と、帝大の入学定員はほぼ同じだったので、頭の悪い者の吹きだまりになっていた。京大も例外ではない。

むしろ中高入試の方が厳しかったのだが、とうてい現在の比ではない。社会が絶望的に貧しく、小学校を出たら働くのが当たり前で、中学受験するのはよほどの金持ちに限られた。だから金さえあれば、誰も行きたがらない帝大文学部へは、ほぼ自動的に入ったのである。

私立の場合はもっと事情がむき出しで、予科というのがあって、そこを出た者はその私立で面倒を見ろ、というのが帝国文部省のお達しだった。だから早慶だろうと私立の予科を出て帝大に入った者は聞いたことがない。金を払う場合に限って、私大本科だけに入れておしまい。

その点吉川には国外逃亡する金があった。当時自費で海外渡航できるのは、よほどの大金持ちに限られた。吉川はそれを十分承知していたらしく、まだ渡航制限や外貨規制が厳しかった昭和30年代、わざわざ渡米して『論語』を口述筆記し、誇らしげにそれを後書きに記している。

ここで勘違いしてはならないのは数Ⅰ的論理学で、帝大文科→頭が良いも、頭が良い→帝大文科も、どちらも「必ずしも真とは言えない」ということだ。つまり帝大文科にもバカはいた。利口もいた。だから帝大文科出の漢学教授にも、バカと利口がいたということだ。

つまり京大文科を出た京大教授吉川の、頭が悪いのは徹頭徹尾、当人のなせるわざである。

漢文読解の真髄は、馬鹿正直に調べに調べ調べ尽くしこれ以上自分には出来ないまでに調べ尽くし生涯を終えてもこれ以上は言えないと今のところやっと言えると白状できるまで調べなお足りぬと探し回ることにある。吉川のような生物やそうなりたい者に分かる話ではない。

例えるなら武術と同じだ。訳者は武の入り口しか知らないが、優れたお師匠様は必ず、目から鼻の才子でなかった。愚直に基本の稽古を積み重ねた人だけが至れる猛威を目の当たりにして、口が語れることはほとんど無い。ウソだと思ったら手近な有段者に聞いて見るといい。

毎日千本素振りする人に勝てますか、と。

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コメント

  1. […] もちろん儒者の中には、私立文系バカたる訳者と同程度には、論理に明るい者がいたはずだから、おかしいなと気付いたはずだが見過ごされている。その理由は明らかで、大学教授や学界の権威同様、儒者も世間師であり、書き物はその興行に過ぎないからだ。 […]

  2. […] 朱子は、もとよりわけワカメな易を「ボクちゃん知ってるじょー」と自慢したかったのだ。吉川が珍妙な唐音や中国語音を持ち出したのに似ている。中国語の音韻学や北京語を知る者には、吉川のハッタリは笑いものでしかないが、易はそうはいかなかった。 […]

  3. […] 外貨制限の厳しい時代に、用もないのに渡米して自慢した、吉川のたわけとそっくりだ。儒者や栄西のハッタリも吉川のそれも、書いていることに自信が無いからハッタリをかますのである。従ってハッタリが大きければ大きいほど、書いてあることはウソだと思って間違いない。 […]