日本儒教史(中)~明治から敗戦まで

日本儒教史 目次

1.日本漢学前史~江戸初期までの漢文業界と論語
2.ラーメン屋の熱血おやじ~江戸時代の漢文業界と論語
3.渋沢栄一翁の落胆~明治の漢文業界と論語
4.たわけの集まり~戦前の漢文業界と論語
5.団塊の占拠~戦後の漢文業界と論語
6.そして恐喝と霊感商法へ~近年の漢文業界と論語
論賛 訳者九去堂曰く

3.渋沢栄一翁の落胆~明治の漢文業界と論語

  • 日本人最低の知能だった漢学教授

維新によって国教の地位を降りた儒教と論語は、金余りの旦那衆が暇つぶしに読む、芸事の類に戻って静かに余生を送る、はずだった。明治政府も儒教を迷信の類と見なし、ただでさえ富国強兵に余裕の無い折に、儒教にバカげた投資をする気はさらさらなかった。

だから昌平黌の後継帝国大学に、当初文科を置くつもりが無かった。世間も西洋文明の輸入には、東京に工部大学校外国語学校医学校法学校を一つずつ設置すれば十分と思った。ところがお雇い教師にうるさく言われ、政府は仕方なく文科大学を置き、漢学科も置いた。

論語 宇野哲人 元田永孚
そこに熊本から入ったのが宇野哲人である。幕末の熊本周辺では、気の触れた儒者の類が出てテロに従事したが、維新後は厄介払いされていた。気の毒に思った大久保が、きちがい儒者の一人明治帝の教師につけたが、これが日本の国家神道精神主義の始まりになった。

上杉慎吉 明治天皇
日本人が集団発狂してアメリカ相手に壊滅的に敗けるタネは、すでに幕末に用意されていた。それを受けて東京帝国大学法学部では、教授の上杉慎吉が、将来の官僚に気の狂った神国論を講義した。対して明治帝が崩御まで正気だったのは、よほど資質が英邁だったに違いない。

西郷隆盛 伊藤博文
それはそうだろう。玉座に詰め寄る閣僚は、どいつもこいつも元テロリストで、西郷のような教唆犯もいれば、伊藤のような実行犯もいた。自分を守るはずの御親兵(近衛兵)までが、銃口を向けさえした二・二六に出た「カルキョウ暴ノ将校」は、明治の初めから出ていたのだ。

故に帝は日本刀ポンとう業物わざもの(逸品)の蒐集に狂奔し、日に一時間は刀をいじった(女官の記録)。

西園寺公望 西園寺公望
呆けた神国論に浸っている余裕はなかったのだ。おじゃる公家の一人である、西園寺公望のような男ですら、幕末維新期には武士の真似して帯刀し、テロリストに交じって何やらやった。晩年の住居だった焼津坐漁荘の、連子窓を区切る丸竹は、襲撃に備えて鉄筋が仕込んである。
坐漁荘

黒田清隆の夫人斬殺事件を無かったことにした明治政府である。帝とて安心出来なかった。

一方宇野は帝大に居座って、順調に出世して文学博士・教授になった。だが審査する方もろくに学問の何たるかが分かっていない時代だったため、ただの年功序列である。常人並みの記憶力があった宇野は、漢籍の一部をとりあえず暗記した。生涯やったのはただそれだけだった。

その宇野を鄭重に自邸に招き、論語の講義を受けたのが渋沢栄一翁である。だがギリ江戸期の教養を持つ翁は、内心がっかりしたに違いない。その証拠に言葉遣いが丁寧な翁にも拘わらず、宇野を「宇野さん」と『論語と算盤』で呼び、博士とも教授とも先生とも書いていない。

論語 渋沢栄一 論語 朱子 新注
翁は常人にあり得ぬ向上心を持った人だから、幼少期は当然論語に親しんだだろう。それは当時の常識に従って、朱子の新注を参照しながら読んだはずである。宇野が知れきった新注を阿呆のように繰り返すのを聞いて、翁は自分で論語を読み直したに違いない。だから『論語と算盤』が書けたのだ。自力で文意を探りつつ読んだ人でないと、あれは書けるものではない。

宇野は先述の通り、枚方市のニセ王仁塚を顕彰する奉加帳を作製し、その発起人の一人になった間抜けでもある。帝國大學教授サマで文学博士サマという権威は、さぞかし利き目があったのだろう、ニセ王仁塚は立派に整備された。そのおつむの程度がどれほどかが分かるだろう。

論語 致遠
宇野を筆頭にした帝大漢学科の役立たずには、明治政府もがっかりした。むしろ焦り始めた。当時巨艦を備えた清国艦隊が日本周辺をうろつき、長崎で暴行事件を起こすなど、対中国政策はのっぴきならぬ場面へと至っていた。だが敵を研究しようにも宇野のような男しかいない。

京都帝国大学内藤湖南
そこで新設の京都帝大に漢学科を置いて、国策研究をさせることにした。地方の新聞記者に過ぎなかった内藤湖南を教授として招いたのはバクチだったが、これが大当たりした。以来現在に至るまで、東大の漢学が概してお茶濁しなのに引き換え、京大は一時学界をリードした

それは現行の論語本にも現れている。自力で原文と格闘し、先哲の言わんとした事を求めた翻訳は、東大出身の藤堂明保『論語』と、京大出身の宮崎市定『論語の新研究』、ただ二冊しかない。自余のいわゆる論語の訳本は、儒者のデタラメのコピペか、さらにその孫引きでしか無い。宇野の訳本も学術文庫に入っているが、昨今便所紙にもならぬのに値が法外である。

高橋源一郎 論語
なお先日書店で、高橋源一郎氏が書いた論語の訳本を目にした。当人が白状する通り宮崎本のコピペである。バブル期にちょっと名の知れた作家だが、才が枯れたと見えてコピペに手を出した。偉そうな警句をかつて放った氏が、宮崎博士を天人か何かのように書かざるを得ない。

論語 宮崎市定
宮崎本=『論語の新研究』が岩波書店から出たのは1974.06.20である。治療と称して勝手に人間の脳を切り刻み、深刻な後遺症を残したロボトミー手術が日本から廃止されたのは、その翌年のことである。ならば高橋氏は老耄をロボトミーでなんとかして貰ったらどうかと思う。

よろしかろう。ロボトミー開発者はノーベル賞受賞者という、氏のお好きな権威なのだから。

訳者の検証では、宮崎本は今なお参考とすべき点を多少持っている。ただし一度読めばそれで仕舞いの本でもあり、時代的制約からすでにこんにちでは明白な誤りと言わざるを得ない説を含んでいる。それを理解する脳も無いから、ロボトミーを讃えるに等しいことを書くのだ。

日本の論語業界人は、今やこのような連中ばかりで、まともな人間がただの一人も居ない。

盗人
また高名な日本の漢学教授の多くは、明治から敗戦直後までの間に(東京)帝大文学部に入ったが、裏口入学に等しい。同年の旧制高校の卒業者総数と、帝大の入学定員総数はほぼ同じで、文学部は誰も行きたがらなかったため、東京帝國大學文學部だろうと事実上無試験だった。

むしろ中高の入試の方がキツかった。だがそれも戦後ほどではない。絶望的に社会が貧しく、小学校を出たら働きに出るのが当たり前だったからだ。ゆえに中学入試に挑む者は、今ならパパはベンツ、ママはアルファロメオ、ボクは辛抱してローバーミニ、という家庭の出だった。

学習院
その代表例が学習院だった。維新後、自分の意志では大小便を垂れるしか能の無くなっていたおじゃる公家の子弟を、明治帝が憐れんで収容所を作った。ただし後ろめたいから宮内省附属塾の扱いだった。明治の明るさというものである。おじゃるだけでなく金持ちも入った。

ところがそこで高等科まで過ごすと、文学部に限り無試験で帝大に這入れた。どうせ文史哲学をやる連中は、ろくでなしだからかまわん、と文部省も思っていたからだ。その代表が白痴に字が似た白樺派で、なすやカボチャの絵を描いたりして、脳みそのお花畑を世間に晒した。

大礼服
訳者の友人の学習院出身者の話では、学祭では爺さんひい爺さんの大礼服を着るのが流行ったらしい。そのでん﹅﹅日本のセレブを名乗るばか者どもが、揃って騙されたのはまだ近い話だ。ニセ論語指導士の襟に付けるサイダーの栓同様、中身が無いから珍妙な姿をするしかない。

一方やる気のある貧乏人の息子は一族郎党を拝み倒し、お上から奨学金を貰い、5年制の中学を4年間だけ行かせてもらい、中退して学費無料の陸士海兵に進むか、始めから中学ではなく学費無料の師範学校に入った。だから当時は日本で最も頭の悪い者が、帝大文科に進んだ。

統計上、カネの多寡と頭の善し悪しに因果関係が無いなら、中学に入る金のない標本を除いて、入った標本から最も頭の悪い者を拾い出せばそうなる。データが無い以上そうした者から当時の日本社会の知能水準を推定すれば、やはり帝大文科と私大出が、日本で一番頭が悪い。

トーダイ文科がバカの集まりになったからと言って、キョーダイ文科はまともだったかと言えばそうでもない。上述の京都学派は、確かに業績を挙げはしたが、世代が代わると勉強と仕事が大嫌いな、バカと欲タカリの集まりになった。宮崎博士はその数少ない例外に過ぎない。

東京文理科大学 広島高等師範学校
ことを漢文読解の世界に限るなら、戦前の研究では帝大や私大よりも、高等師範その他の師範学校の方が、程度が高いのはそれゆえだ。世間に対する言い訳でしかなかった大学の論文と違い、漢文教師を養成するという現実問題に対処させられたからには、理の当然と言える。

夏目漱石 吾輩は猫である
戦前の大学は、実務家を産めなかった。東大工学部は、もと工部大学校という別機関だった。夏目漱石が「吾輩は猫である」で、「団栗どんぐりのスタビリチー」や「玉摺り」と物理を小ばかにしているのはそのためだ。もっとも漱石が教えた文学部は、最も役立たずばかりを輩出した。

帝大は勅令に「高尚ノ學問」をする場として設置されたのをいいことに、現実問題の解決をばかにして、空理空論をもてあそんだ。大正以降に大学の範囲が拡大されると、このふざけた悪臭だけは私大に至るまでうけついで、教授も役立たずなら学生どもも役立たずを再生産した。

対して旧制中学の漢文教師は、今や絶滅危惧種の漢文教師とわけが違う。日本の貿易相手のトップは中国であり、国策以外でも日本人は中国人と付き合わざるを得なかった。当時の漢文科には同時代の時事・商用中国文も範囲に入っており、中国語会話経室の役割もあったからだ。

だから帝大教授の宇野より、中学の漢文教師の方が漢文が読めた。ゆえに国語の教科書に載るような物書きが、たいてい東京帝大文科の出だからといって、そのおつむがよかった証明にはならない。事は漢学教授も同様で、東大出だろうと極めて怪しい。それ以外ならなおさらだ。

これは恐ろしいことだった。無能なのに学士様だぞと威張り返った連中が社会に溢れ、行き場が無くて不穏分子化し、中には真っ赤や真っ黒になってテロに走る凶漢まで現れたからだ。これに普選が相まって、浮ついた馬鹿者どもの欲望で、政治が左右されてしまうようになった。

チャーチルは、民主主義は最悪の政治方式だ、他の方式全てよりましな、と言った。現在の中国政府が、カネで簡単に転ぶという民主主義国の弱点を突いて各国の政治中枢に浸透したように、民主主義にはもともと衆愚政治や金権政治や利権政治と、隣り合わせになる覚悟が要る。

山県有朋 与謝野晶子
司馬遼太郎が悪口を書きまくったために誤解されているが、独裁の権化に見える山県有朋でさえ、かつて自由リベルテ平等エガリテ友愛フラテルニテのために前線で戦った志士テロリストであり、徴兵する以上議会制は当然と思っていた。だから与謝野晶子に悪罵を放たれても、放置して傷一つ付けなかった。

日本帝国は民主主義でなかったからではなく、民主主義だったから滅んだのだ。

4.たわけの集まり~戦前の漢文業界と論語

  • そして誰も責任を取らなかった

日露戦争が終わって日本は腑抜けた。ろくに飯も食わずに戦艦三笠を買った日本人は、それまでの栄養不足がたたって、目標は達成したが脳がいかれた。それからおおむね敗戦までの時期を、とりあえずざっとまとめて戦前と呼ばせて頂きたいが、およそ気高さというものがない。
日比谷焼打事件
日比谷焼き打ち事件

日露戦争が日本の命運を分けた大戦争だったことは間違いないが、日本の全てを傾け尽くした総力戦ではなかった。ポーツマス条約が気に食わぬからといって、戦場に出てもいない、たわけた野郎どもが、日比谷をはじめ各地に山ほど出て暴れ回ったことが、その何よりの証拠だ。

論語 日本海海戦 三笠
日本はロシアに勝つ準備を終えてから開戦した。司馬遼太郎は『坂の上の雲』でバルチック艦隊の戦艦数を日本の倍以上と書いて誇大広告に努めたが、ロシア戦艦の半分は波の立たないバルト海専用の浮き砲台に近く、それが何とか日本海の荒波に沈まず浮かんでいる状態だった。

第一次大戦もドイツに勝つ準備を終えてから開戦した。青島のドイツ軍要塞に向けて雨あられと砲弾を降らせて、ほとんど瞬時に陥落させた。ところが新聞はその勝利を臆病と非難し、国民も同調した。裏に日露戦の勝利を神国思想の宣伝に利用した狂信者の暗躍があった。

なべて戦前はふざけた時代だった。古事記犬とヤる行為を「いぬたわけ」というが、戦前の日本はたわけの集まりだった。当時の新聞を丹念に調べた研究で知ったのだが、毎週のように小学校長が教え子の女児を犯し、津山三十人ナントカのような気色悪い事件が続いていた。

馬鹿田大学
その雰囲気に乗って、たかが私立専門学校に過ぎないインチキ学校が、勝手に政令を拡大解釈して大学を名乗るなどの椿ちん事も起きた。それが尾を引いて現在でも、そこの学位を東大に持っていくと高卒扱いされる。もちろん漢学界もそうした世間の雰囲気と無縁では無かった。

島崎藤村 芥川龍之介
当時を知るには、漢文業界に限らず広く文系業界の行状を語った方が分かり易い。文壇の親玉格だった島崎藤村は、教え子に加えて姪まで犯したため日本にいられなくなり、海外に逃げた。そうした小金持ちの無軌道を芥川龍之介は『侏儒の言葉』で、偉そうにこき下ろした。

現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁をすすった後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか?

すっぽんと鰻とは当然、そういうことである。だがその芥川は中国へ女買いに出かけ、病気を貰って帰国し、以降ハナモゲラの恐怖から頭がおかしくなってとうとう自殺してしまった。

坂口安吾
その芥川の所業が知れたのは、坂口安吾がバラしたからだ。のぞき見とバラシしか能の無いろくでなしで、戦時中徴兵を逃げ回って何とか8/15を迎えたが、そこで「堕落論」を書いて時代の寵児になった。だが読めば分かるが、文が下手な上、至ってひ弱な文字列に過ぎない。

だから二番煎じを書いたらそれでおしまいだった。

安吾が徴兵を逃げ切ったのは、競馬で言えば一馬身も無い話で、あと数日敗戦が遅れていたら、二等兵で引っ張られて前線行きだった。戦争末期ゆえ渡す銃も無かったが、安吾のような中途半端に頭のいいひょろひょろは、勘が鈍くて戦場で真っ先に撃たれる好例なのである。

その安吾の文が有卦うけたのは、痰が絡んだ時に、偶然落ちていた広告チラシと同じ事情である。火急の用には必要で有り難いが、ぺぇっと吐き出してくしゃくしゃ丸めたら、後は捨てる他に用がない。拾い直してロールシャッハの真似をするのは、バカと国語教科書の筆者ぐらいだ。

論語 石川啄木 金田一京助
文士と言えば「ぢっと手を見る」とか言って謹直そうな印象を振りまいた石川啄木は、その実女郎屋に入り浸って、その金を国語学者の金田一京助宅に押しかけてはたかった。京助の子春彦は当時、「大泥棒・石川五右衛門の子孫かも知れないから仕方が無い」と思ったそうだ。

平沼騏一郎
さて当時の漢学界は何をしていたか。一つには戦争への地ならしである。その親玉は無実の人を刑殺するのが趣味だった司法官僚出身の平沼騏一郎だった。「日本は神の国じゃ」と言い回る真正のきちがいでもあった。危ぶんだ西園寺は、平沼の首相就任をできるだけ阻止した。

平沼はおじゃる公家と神主どもを従えて国会に猛運動し、漢文と神国思想ばかりを教える大東文化学院の設立を認めさせた。税金により学費無料の上小遣いまで出る、帝大よりも優遇された学校だった。養成したのは漢文が多少読める偏狭な神国思想家、そして右翼活動家だった。

納税者への貢献は『大漢和辞典』と米朝師匠だけだった。平沼は、血税でキチガイを養えと言ったのだ。それが通った結果、日本人は皆殺し寸前まで追い詰められ、終戦直後はテロリストの温床となった。あんな気の狂った組織が、今なお息をしているから、キチガイが絶えない。

つまり戦前の漢文業界は、狂信的な神国思想と分かちがたく結びついていた。政府や軍部におもねって、時局スローガンを作る手伝いもした。うさんくさい連中が今なら「マニフェスト」とか横文字で言うが、当時は「神州不滅」「八紘一宇」とか、漢語がその役をした。

その典型的な宣伝コピーの羅列が、二・二六事件叛乱軍蹶起趣意書である。
曲学阿世

要するに漢語が分かる者が極めて少なかったから、スローガンたりえたのである。中島敦とか例に出して、戦前の漢学水準は高かったと言う者がいるがデタラメだ。確かに旧制師範学校や中学校の漢学教員には、読解力の高い人がいたが、コピペ師に過ぎなかったのは宇野と同じ。

当の中島敦にした所で、「よく漢籍の書名を知っている」というだけに過ぎず、「よく読解している」ではない。難読極まる漢語をべらべらと書き連ねて、当時の読者と戦後の国語教科書筆者を驚かせただけだ。一種のハッタリ師であり、幼女でもさらいかねない顔をしている。

中島敦 梶井基次郎
だが当人は「耽美派」のつもりだったらしい。同じく耽美派を名乗った梶井基次郎と連れだって、銭湯の鏡で自分の身の程を知ればよかったのだ。定職にも就かずに女性を妊娠させた中島は、もし持病の喘息が悪化しなかったら、勤務先の女子校で何を仕出かしたか分からない。

格子窓越しに中庭の松の木が見える、文科省の国語教科書審査官室に座るのを目指す若者に向けて、世話に和らげて申し上げるなら、定収入の当ても無いのにキン○マに振り回されて、ゴムもしないでタ○付けしちゃう程度にうかつな男だ。面倒くさい古典が読めるわけがない。

童貞の機関車
エロ・グロ・ナンセンスと当時は言った。訳者の近い先祖にもそれに染まった人間のクズがいる。戦前は不真面目が粋と勘違いされた。そんな日本の機能不全に目を付けた蒋介石は、邦人の虐殺や通商の妨害など、ちくちくと嫌がらせを続けていたが、ある日バクチに出た。

一般に中国人には約束や法の概念が無い。無いから理解できない。教えても受容体レセプターが無いから感作しない。だから平気でウソをつき法と言えば刑罰でしかなく、ゆえに弁護士を律師ルーシ(刑法使い)という。蒋介石は実に中国人らしい男で、日本との条約を守る気などさらさらなかった。

法三章という故事成句がある。人類史上初の法治国家を目指した秦帝国は、人民に嫌われて滅び始めた。そこで漢の高祖が”人殺しは死刑。傷害罪は同害報復。ドロボーは罰金。これ以外の法を廃止”と言って支持を集めた。だが漢帝国成立後は、秦の法をそっくり受け継いだ。

もちろん全人民に刑罰で脅しつけて強制したのだ。こうした法三章とその後の裏切りは、現中国に至るまで繰り返された。だから中国では法曹を「法」(法を悪用する強盗)と言って、判事検事弁護士に至るまで、人民に忌み嫌われている。それぐらい法と中国人は相性が悪い。

蒋介石
蒋介石は雇ったドイツ将校におだてられて、条約で認めた上海の日本の居留地を攻撃した。日中戦争は中国が仕掛けて始まった。ところがものすごい日本軍の反撃に遭い、あっと言う間に追い払われたばかりか、重慶の山の中にまで追い詰められた。さすがの蒋介石も手を挙げた。

戦争はそこで終わりの筈だった。

だが戦前日本で最も罪が重い男である近衛文麿が、「あれも、これもよこせ」と言い出して終戦がお流れになった。なぜか。当時食い詰め者のくせに働きたがらない連中が日本にあふれており、そうしたいかれた貧民どもの機嫌を取らないと、普選後の政治が回らなかったからだ。

近衛文麿
連中の一部は「僕も行くから 君も行け 狭い日本にゃ住み飽きた 海の向こうには支那がある 支那にゃ四億の民が待つ」とか言って、やくざまがいのシノギを中国で始めた。これを大陸浪人という。ヒトラーコスプレが大好きだった近衛は、こうした連中の突き上げにあって、蒋介石に「あれもこれも」と言わざるを得ない立場に追いやられていたのだ。

論語 大隈重信
明治以降の日中間には不幸の歴史しかない。戦後の中国による恐喝と侮辱も甚だしいが、侮辱だけなら長崎事件以降、戦前もひどい。だが中国に無理難題を言ったのは近衛ばかりでなく、大隈重信二十一ヶ条要求を突きつけた。日本が土足で中国に踏み込んだのも確かなのだ。

松岡洋右
その一環として近衛は自分で火事にガソリンを注いでおきながら、手の付けようが無くなった。その外相は、松岡洋右という極めつけのきちがいだった。松岡はヒトラーとスターリンの機嫌を取るため外遊し、ついでにへたくそな英語の演説をぶって国連も抜けてきた。

その間本国では、真面目な外交官がルーズベルトと交渉し、「満洲程度なら好き勝手に独占していいよ」という夢のような妥協案(日米諒解案)を取り付けた。真っ先に賛成したのが東条率いる陸軍である。戦後になって「悪玉は陸軍、海軍は善玉」という不思議な「常識」がまかり通ったのは、海軍が占領軍と取引したからに他ならない。司馬遼太郎にそのニオイがある。

だがここで、松岡のひがみが破裂する。

帰国した松岡は激怒した。「ボクの手柄にならんじゃないか!」妥協案は握りつぶされ、事情を知らないルーズベルトが海の向こうで「変だな、変だな」と思っているうちに、日本は勝手に南方へ兵を進めた。何という仕打ち、激怒したルーズベルトはハルノートを突きつけた。

だがそこには、「一試案に過ぎない。あまり真に受けるな。今すぐ日本をどうこうする気は無い」とはっきり書いてあった。外務省はどういうわけか、この部分を削除して閣議に出した。親玉だった松岡のしわざで無いと誰が言えよう。これを受けて近衛は政権を投げ出した。

松岡洋右*1
松岡は苦学生だった。人種差別の激しい時代にアメリカへ私費留学し、奴隷扱いされた。帰国したのは日露戦争直前だったが、徴兵逃れのため外務省に入った。米国通として近衛内閣の外相となってからは、「アメリカは一発ぶん殴ってやらんと話にならん」とうそぶいた

山本五十六
連合艦隊司令長官の山本五十六も苦学生だった。初陣は日本海海戦だったが、その後アメリカに留学した。米国通として海軍の指導的立場に立ち、日本海軍が米海軍相手にまるで戦えないことを知っていたが、「アメリカ相手に半年や一年は暴れてみせる」とうそぶいた

東条英機*1
ひたすら避戦を目指した東条内閣は、朽木が落盤で砕け散るように開戦を決意した。成り上がり者のひがみ根性が、日本全土を丸焼けにし、罪無き人々の黒焦げ死体を作り、食糧すら支給されぬまま、訳者の爺さんの戦友は、酷熱の南溟、乾き切った大陸、極寒の北滄に散華した。

あまりに多すぎる罪無き日本人が、無念に無残に死んでいったのだ。


こうした一連の破滅への道に、文壇も論壇も文系学界も、もちろん漢学界も何一つ止める力にならなかった。むしろ新聞を筆頭に、中途半端な知識人がべらべらと半可な時局論を語り、連合艦隊は占いで作戦を決め、よってたかって対米戦へ対米戦へと世間を煽った。

漢学界は大東文化学院を拠点に、若者を焚き付けて戦場や大陸に送った。戦場も悲惨だったが、満洲など日本の勢力圏の民間人も悲惨な目に遭った。8/15になった途端、まるで野の獲物を狩るように中国人が日本人を殺して回り、ソ連軍は女性を犯し男はシベリアに拉致した。

いすれそうなるとは夢にも思わぬ世間は、喜んで勇ましい宣伝に拍手喝采した。どの公的機関も、全く役に立たなかった。帝国憲法の制度上、最後のゴールキーパーだった天皇は、「なんとかしてくれ」と言うばかりで、自分では何もしなかった。つまり誰も責任を取らなかった。

真珠湾攻撃
真珠湾ルーズベルト陰謀説を訳者は信じない。当時の様子から、やるかもしれんなと思ったアメリカの個別の責任者が、たまたま空母だけ出港させたのだ。本当にワレ奇襲ニ成功セるだまし討ちだった。かつてのアメリカ人も、そして日本人も、間抜け扱いされる謂われは無い。

そして日本は一旦滅んだ。戦後はアメリカの属国に落ちぶれた。

自業自得と言うにはあまりに情けないし、忍びない。こんにち外国の回し者やえせリベラルの言うウソは聞くに堪えないが、頭の悪すぎる保守派が戦前を持ち上げるのも、聞くたびにやりきれなくなる。調べもせずデタラメな妄想を言うのは、要するに他人事だからだ。

日本帝国は必ずしも、中朝韓とその回し者が言い回るような悪の侵略国家ではなかった。だが蒋介石を筆頭とする中国人の無道と悪辣を、漢文業界人は見抜けなかった。『ずぶとく・はらぐろく』の様な例外もあったが、ラーメン屋を拝んだ黄門様から進歩しなかったのだ。

学者を名乗るには怠惰にも程がある。外交官の任地惚れ同様、研究対象に惚れ込んだら、それは頭がおかしいということだ。中学教師を除き、大学教授含め常人未満の知能しかなかったから不思議は無いが、医学者が病原菌を愛して撒き散らすのに等しいことを漢学者はやった。

近衛と新聞屋は「暴支膺懲ヨウチョウ」(人でなしの支那を懲らしめる)と言って世間を煽ったが、始めからそういう連中だとの理解があれば、日本人はいら立たずに済んだはず。その理解の仕事の責任は漢文業界全体にあり、漢学教授のみならず中学教師も、戦争に引きずり込んだのは同罪だ。

戦後のえせリベラルのような勝手な中国惚れは、戦前も含めていつも裏切られてきたし、世界中が裏切られた。嫌悪も惚れるの一種である。その原因はまるで中国人を知らないからであり、知ったかぶりをした連中が、「孔子様の国」とか言って一般人をたばかり続けたからだ。

その理由が「贅沢したかったんだもん」だから、救われないし浮かばれない。

歴史にifを語るなら、戦前の日本の漢文業界がもしまともだったら、日中戦争はさっさと終わり、日本帝国は滅亡せず、蒋介石だって台湾へ逃げずに済んだかもしれない。すると狂気の独裁政権が今なお中国を支配することもなく、中国人は幸せに暮らしているかも知れない。
狂気の独裁政権
こいつらはきちがいだ。どうしてそれが分からない!

日本は対中政策に失敗して壊滅的な敗戦へ突き進んだ。国策研究をした者もお茶濁ししかしなかった者も、漢文業界人の罪は重いと言わざるを得ない。何のために公金を食んで教授様とおだてられていたのか。無論日本人を幸せにするためだが、連中は不幸にしかしなかったのだ。

大東文化学院の一部の教員など、戦後になってしおらしい反省文を書き付けた男はいた。だが教え子を煽って戦死のやむなき境遇に多数追いやっておきながら、「申し訳ない」と腹を切って果てた者はただの一人も居ない。どころかほとんどは、反省の辞一つ口にしていない。

漢文業界人は赤い帽子をかぶって責任を他になすりつけ、戦後ものうのうと生き続けた。

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*1 引用aa:AAで考察する大日本帝国敗亡原因の深淵 第3話「大日本帝国敗亡原因の抽出」その3

原題:日本の論語業界と漢学界,2020.06.03,©九去堂

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コメント

  1. […] 帝政期の日本は、天皇を神サマ扱いしないとぶち込まれ、拷問死の憂き目に遭う吉外国家で、その神格化を言い出したのは神主ではなく儒者。吉外神主はその後でわいたに過ぎない。従って孔子も信仰の対象で、八紘一宇などの洗脳スローガンをまき散らしたのも、税金を湯水のように使って帝大より優遇された、大東文化学院に巣食った吉外儒者どもである。 […]