日本儒教史(上)~江戸幕府まで

結論:日本には過去も現在も、まともな儒者や漢学者はほとんどいなかった。だが今後は分からない。

日本儒教史 目次

1.日本漢学前史~江戸初期までの漢文業界と論語
2.ラーメン屋の熱血おやじ~江戸時代の漢文業界と論語
3.渋沢栄一翁の落胆~明治の漢文業界と論語
4.たわけの集まり~戦前の漢文業界と論語
5.団塊の占拠~戦後の漢文業界と論語
6.そして恐喝と霊感商法へ~近年の漢文業界と論語
論賛 訳者九去堂曰く

1.日本漢学前史~江戸初期までの漢文業界と論語

  • それは卑劣な男のインチキと言いがかりから始まった

応神天皇
日本の論語の受容が5世紀の昔に始まるという情報は、現代の論語読者にはどうでもいい話だ。だが日本儒学史を語るには欠かせない情報でもある。ありがたい論語と儒学が伝わったからではない。日本の儒学は始めから、うそデタラメでっち上げとセットだとわかるからだ。

論語 カプロスクス 邪
論語を伝えたのはという百済人だったとされる。日本をおとしめたがるいかれた連中とその回し者が、必ず取り上げる人物である。しかしその事跡はあまりに伝説めいているため、実在を疑う史家も多い。ところが王仁の墓は枚方市に実在し、それをあかす古文書まで揃っている。

伝王仁墓

(c)枚方市ホームページより引用

現在、現地は後述する間の抜けた帝国大学教授のおかげも被って、本当に王仁が実在するなら腰を抜かすであろう、朝鮮風のテーマパークみたいな結構が整えられている。だが枚方市は大真面目のようで、まつわる古文書にまるで疑いを持たずに、誇らしくHPをこしらえている

だがそれらの古文書は、全部偽作だった。以下、馬場隆弘『椿つばもんじょ』中公新書より紹介する。黒船が来る直前まで、江戸時代の近畿で妙な大活躍をした儒者に椿井政隆がいた。肩書きは儒者だが本業は文書の偽作である。村や寺社が利権を争っている所、すぐこの男が現れた。

いずれもゼニかねが関わる話である。「お前に有利な古文書を探してきてやろう。」椿井はそう言うと、関連資料をしらみつぶしに調べ、さもありそうな古文書を作った。文書ごとに筆跡を変え、いざ捕まったときに「シャレでんがな」と言い訳できる仕掛けまで備わっていた。

精密な絵図まで描いた。王仁の墓も同様で、「おに塚」と呼ばれていた自然石を、王仁の墓だと証す文書を作った。それだけでは金にはならないが、近隣の豪農など、偉い先祖が載る系図が欲しくてたまらない愚かな小金持ちの所へ出かけ、王仁の末裔とする系図を何枚も書いた。

古墳の専門家からは、以前からそのいわれに疑問が投げかけられており、時代的に見てあり得ない墓だという。本当に王仁が実在して朝廷から尊崇されたのなら、そんな粗末な自然石をごろりと転がしただけの墓ではあり得ず、本格的な古墳を作っただろうと言うのである。

以上が上掲書の記す内容である。

論語 宇野哲人
相当な金になっただろう。椿井文書はあまりに大量に存在し、あまりに出来が良すぎたため、当時の百姓や幕府だけでなく、現代史家までコロリとだまされた。このニセ王仁塚は、のちに日本漢学界のボスになる東京帝国大学教授・宇野哲人によって、さらなる格付けが施された。

帝国の権威が、宇野から「それは違いますよ」と言ってくれる人を奪ったのだ。元は珍妙な見せ物を事とする新興宗教だった儒教が、中華帝国の国教となったきっかけは、ゴロツキの極みだった漢の高祖に、儀式で皇帝の権威をまとわせ、誰も逆らえないようにした効能からだ。

日露戦争で、陸軍の総司令官として遠征軍を率いロシアに勝利した大山巌元帥は、戦争前、開戦を焚き付けに来た東京帝国大学の教授=七博士が帰った後、息子の柏に「今日はバカが七人来た」と言った。チヤホヤ甘やかされると、人は東大教授や団塊のように、必ず馬鹿になる。

宇野の当時、ただの人間に過ぎない天皇を、漢の高祖同様神として拝ませたが、その仕掛けは明治の初めに、九州から出てきたきちがい儒者による発案からで、儒教は妙なものを人に拝ませる代わりに、人間をクルクルパーにした。インチキ系図を欲しがるのもその一つ。

この手の系図は戦前まではごく一般的だったらしく、戦後、立つ筆に任せて文壇を風靡した山本周五郎の作品に、「けえずかい」という言葉は注釈抜きで出てくる。そもそも山本作品は基本が大衆娯楽であり、注が要るようなもったいぶった作風とはほぼ無遠と言って良い。

儒学はその始まりからインチキで、椿井の手法は現在の某元教授が開帳した詐欺そっくりだ。

天神様
時代が下って平安朝、朝廷は初期には中国の真似で、儒教の知識を試験して官吏を登用しようとしたが、天神様失脚事件のように、摂関家にとってそんな不都合の制度はさっさと骨抜きにされた。儒学など取り入れなくても、日本の政治は回ったからだ。つまり無用の存在だった。

おじゃる公家
従って論語も、特定のおじゃる公家が家の芸事として伝承しているに過ぎなかった。時代が下っても日本人はいっかな儒教も論語も受け入れなかった。五山の坊主が漢学をどうこうと言う人がいるが、その程度は至って低いもので、僧の多くはまるで漢文が読めないに等しかった。

だから直江兼続が、個人で『史記』全巻を持っていたのは驚嘆すべき学者と言える。その版本は、現存する世界最古の『史記』であり、中国では一旦絶えて逆輸入した。そしてやっと戦国が終わりかけた頃、論語おじゃるの末裔藤原惺窩ふじわらせいかが、変な中国服を着て京都をうろついた。

藤原惺窩 前田利家
大道芸人だと思ってそれを拾い上げたのが、前田利家である。当時、平家物語を伴奏付きで聞かせる琵琶法師や、太平記を語って聞かせる太平記読みが、放浪の芸人として京と地方の城下町をうろついていた。乞食の一種だった。目立って貰いを増やすため、惺窩は中国服を着た。

論語 琵琶法師 太平記読み
それがたまたま利家の目に止まったのだが、拾ってみると珍しい芸だったので、豊臣秀吉や徳川家康に紹介した。食うにも困っていた惺窩は喜んだ。だがこれは重大な結果を後世に残した。何を勘違いしたか権現様が気に入り、惺窩の弟子の林羅山を江戸に連れ帰ったからだ。

茶坊主に丁度いいと思ったのだろう。だから羅山は頭を剃らされたが、怒りもせず「国家安康」の悪だくみに嬉々として手を貸した。儒教的価値観では、頭を剃るのは蛮族に身を落とすことであり、決してあり得べからざる暴挙だったが、羅山がそれをどう思ったか不明だ。

論語 林羅山 論語 漢文 誤読
たぶん儒教をよく知らなかったのだろう。羅山は論語ほか漢籍をなぞりはしたが、読めない所は飛ばして済ませた。それは山ほどあった。英文解釈でも1/3が読めなければ合格は厳しい。だから至って怪しい儒教の知識しかなかった。元が乞食の助手では無理も無かった。

wikipediaに「漢唐の旧注から陸象山・王陽明の学におよび、諸子百家から日本の古典にも通じた」とあるが、知らぬが故の大盛りである。羅山は真面目に漢文を読まず、朱子の猿真似で黒魔術の理気学に熱中した。そのせいで余計に頭がおかしくなり、家も焼けて狂い死んだ。

国家安康のように、学問をねじ曲げて権力者のご機嫌を取り、私的な儲けに走る連中を、曲学阿世の徒という。羅山はその辞書項目の挿絵のために、世に現れたような男だった。だが彼の私塾はのち昌平コウとなり、幕府公認の唯一の国立大学になった。その上儒教は国教化された

日本の儒学は始めから、性根の卑しい男どものきんた○臭さと、切っても切れなかったのだ。

2.ラーメン屋の熱血おやじ~江戸時代の漢文業界と論語

  • 暴君と狂臣が強制した中国かぶれの始まり

徳川家綱 徳川綱吉
江戸の初めは儒教も新興宗教の一つだった。同時代人にとっても儒学とは、変な人が学ぶ趣味だった。ところが徳川綱吉が出て事情が変わった。不遇に育った綱吉は、兄の急死という偶然から征夷大将軍になった。その理由を自分が天から世を救う使命を受けたからだと信じた。

たぶん不遇時代に論語の一冊も読んだのだろう。綱吉は渾身善意の人だった。そして独裁者の地位に就いた。この足し算は必ず右辺が暴君になる。多少は後ろめたさを自覚していないと人を許せず、人は名君にはなれない。そして当時の社会は極めて血なまぐさいままだった。

水戸黄門 水戸黄門
名君と言われている水戸黄門は当時の人だが、刀の試し斬りで乞食を拉致し、言い訳しながら平気で斬った。武士は末端の足軽チュウゲンから、身分あるはずの旗本退屈男に至るまで、徒党を組んでは人斬りを繰り返した。諸藩は善政どころかせっせと重税を課し、一揆は皆殺しにした。

綱吉はこれに我慢が出来なかった。そこで幕臣と大名に論語を読め読めとしつこく言い始めた。独裁者の気焔に怯えた諸大名は、新興宗教の信徒に過ぎなかった儒者を、羅山の末裔とその周辺から、拝み倒すようにして借りてこなければならなくなった。林家は大儲けした。
徳川綱吉

綱吉は林家のために孔子廟を建ててやった。後に松平定信が幕府直轄に移管した。加えて林家の儒者連中を幕臣にした。怪しげな新興宗教の本山が、一夜にして唯一の国立大学になった。幕臣は武官も文官も、一人残らずその昌平黌で一通り儒学を学ばなければならなくなった。
論語 カルト教団 国立大学

独裁者の意を迎える他ない諸藩も、儒教の受け入れにやっきになった。丁度中国は明が倒れ清に征服されたが、追われた中国人が海からワカメだらけになって日本に上がってきた。その一人朱舜水を黄門様は優遇した。だが舜水は、引退したラーメン屋のおやじに過ぎなかった。

徳川御三家の一家、表高35万石の領主が、そのラーメン屋のおやじを拝んだのである。

朱舜水 朱舜水
今も水戸名物に黄門ラーメンがあるのはそれが由来である。訳者も騎行で西山荘はじめ常陸の各地を訪れた後、一日水府に滞在して味わった事がある。あれはうまいものではない。だがラーメン屋のおやじを侮ってもならない。舜水は抗清戦の前線に立った勇士でもあったからだ。

同様にモスクワは赤の広場にそびえる、「肉屋のおやじクジマミーニン像」の例もある。銘板のГРАЖДАНИНУグラジダニヌ МИНИНУミーニヌを、”市民ミーニン”と訳すのは日本のロシア語業界のお約束に過ぎない。それはピョートル大帝の”ひげ税”勅令によると、より日本語に近い訳は”町人グラードの人”だ。
クジマミ-ニン

攻め込んできたポーランドに怒ったミーニンは、肉切り包丁片手に立ち上がって敵兵を追い払い、民族の英雄となった。対して舜水の壮図は事破れたが、儒学の教養とは話が別だ。熱血漢の舜水は、黄門様に後ろめたかっただろう。ゆえにせめてラーメンを振る舞って恩に報いた。

後述する佐藤一斎のような、迷惑な儒教本などを書かなくてよかった。

その方が後世の水戸市民にとって、どれだけ助かったかわからない。この点wikipediaあたりは、儒学については偽善を事とする儒者風味の者しか書き手になりたがらないので、ものすごく盛ったうそデタラメが平気で書いてある。論語の儒者の注釈同様、真に受けるのは危険だ。

朱舜水の場合も、わかめ中国人の儒学の程度を判断できる者が、受け入れ側の日本に皆無だったから、水戸始め諸藩もただ中国人が居るというだけで体裁は整った。日本人に儒教が根付くのはこの頃からだが、その原動力は綱吉にしろ定信にしろ、狂気の独裁者の趣味からだった。

儒教の祭祀は「血食」といって、殺した動物をいけにえに供えなければならなかっ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅た。この中国の風習は、日本人には受け入れ難かった。「あの顔で 豚を食うかえ 楊貴姫」との川柳はそれを示している。だから江戸の儒者は大根や菜の類を供えて誤魔化した。インチキである。

だが悪いことばかりではなかった。暴政を敷く藩は儒教を理由に取り潰されるようになった。ほんの前まで全国で戦国の殺し合いを繰り返し、暴れ足りずに海外まで押し込んで東インド会社傭兵軍の主力になるなど、スーパーサイヤ人だった日本人は、みるみる大人しくなった。

ただしその代わり日本人は阿呆になった。儒教はそもそも人の思考を停止させる機能が極めて強いから当然だった。「ならぬことは、ならぬのです。」それが幕末に会津の民を地獄の戦火に巻き込んだ二世紀半の平和に、儒教は確かに貢献したが、いいことばかりでもなかった。

猛毒だったのは、孔子が説きもしなかった忠孝だった。軍国主義者の朱子を経由して儒学を取り込んだ以上そうなった。忠孝は目上や親への奴隷的奉仕を強制した。受け入れない者は人間扱いされなかった。ただし『二十四不孝』を書いた江戸人は、中国人よりは気が確かだった。

論語と算盤 松平定信 論語と算盤 松平定信
上掲の松平定信も、儒教的には正義の人だった。朱子学以外を禁止して思想弾圧を行ったまではいいが、全国にのぞき男とチクリ屋をばらまいて、趣味は没収したエロ本を深夜一人で鑑賞することだった。まぎれもないサイコパスだが、儒教にはその偽善を暴く機能が無かった。

そもそも儒教が偽善で出来た壮大なウソだったから当然だった。

佐藤一斎佐藤一斎
それが幕末になると露呈した。昌平黌の長官だった佐藤一斎は、極めて押しつけがましい卑屈を他人に強制して回るきちがいだった。そして年老いて明らかに痴呆が始まったが、その地位に居座り続けた。列強の脅威に対策を立てるための、一国の最高学術顧問が痴呆老人だった。

天狗党 大久保利通
それもあって幕政は迷走した。見切りを付けた薩長その他は倒幕に回った。対して助かりたい一心から幕政は残虐になった。天狗党の一行を幕府がニシン倉に閉じこめて、鳥でも締めるように次々と殺した話を聞き、大久保利通は「これで幕府もおしまいだ」とせせら笑った。

幕府の権威は、征夷大将軍という漢語に根源を持っていた。誰も漢文を読めない間は、その意味を問われなかった。だが紛れもない夷狄である米英仏露その他を、幕府は全く征せなかった。幕府はニセモノであることが露呈した。当の将軍徳川慶喜がそれをよく知っていた。

徳川慶喜 軍艦
だから鳥羽伏見の戦いの後、を連れて軍艦で江戸に逃げ帰った。幕府は潰れた。

江戸の儒者については、神主や貧乏侍とつるんで幕末にテロを繰り返した事のほかに、天下太平の時代から、上記の通り在地の偽作業者として金儲けに走ったことを指摘できる。江戸時代が下ると共に、識字率の向上と相まって、この手の需要が盛んになったことに応じたのだ。

江戸の始まりを告げた関ヶ原の合戦で、家康が空手形やニセ手紙を何枚も書いたように、武略としての噓偽りは日本人の得意芸だった。だが平和な世になると例えば隣村との些細な利権の争いが大事おおごとになり、その都度農民は読み書きできる者に頼んでニセの権利書の類を作った

当初在郷の識字階級は、儒者と神主と坊主しかいなかった。神主と坊主は賽銭のベーシックインカムがあったが、儒者は手習いを教える以外に収入の道が無い。そこで目を付けたのがニセ文書の作成で、せっせと史料の類を読んでは、まことにそれらしいニセ文書を書いて売った。

中には椿井文書のように、あまりに出来が良く、あまりに大量に売り出されたため、まんまと現代の史家まで欺し通したのもある。竹内文書東日流外三郡誌の類は、何も戦後の詐欺師だけが作ったのではない。民明書房に就職したがる大学院生が出たのも、まだ遠い話では無い。

徳川政権はニセ手紙で権力を奪っておきながら、後述の通り日本史上最も不潔な世代である団塊の就職後同様、開幕後はコロリと態度を変えて、弱い者いじめに血道を上げた。

寛保二年(1742)きめたり
一、謀書又ハ謀判いたし候もの 引廻之上 獄門 但加判人死罪
(ニセ文書やニセ印判を使った者は、町中を引き回してさらし者にした後、首を刎ねてさらす。それらに判子をついて保証人になった者は、斬首ののち刀の試し斬りにする。)

寛保二年極
一、謀書と乍存頼に任せ認遣候もの 重キ追放
(ニセ文書と知りながら頼まれて書いた者は、人口まばらな地域へ強制移住とする。)

徳川禁令考後聚
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787019

だから団塊同様のニセモノ・出たら目・残忍・陰険がばれて、あっけなく滅んだのである。

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原題:日本の論語業界と漢学界,2020.06.03,©九去堂

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