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孔門十哲の謎について

孔子を押し上げた人たち

スペースシャトルはNASA技術の結晶だったが、自力では打ち上がらない。二本のブースターに巨大な燃料タンクを抱いて、宇宙へ飛んでいった。春秋時代の身分社会で、底辺から孔子がのし上がるには、ブースターの門閥だけでなく、新興氏族という燃料タンクも必要だった。
スペースシャトル

鉄器の普及と農作の余裕。作るに難しい小麦の普及は、社会の余剰生産を物語っている。その蓄えを背景に、公権力に依らない武力集団や、身分を向上させようと図る氏族団がいた。そうした沸騰するエネルギーが、孔子をシングルマザーの巫女の子から、宰相格まで押し上げた。

大約距今五千年左右小麥進入中國。在此之前,中國南方和北方已經分別形成了以種稻飯稻、和種粟飯粟的農耕飲食文化。小麥自出現在中國西北新疆等地之後,在中國經歷了一個由西向東,由北而南的擴張過程。考古证据表明:龙山文化开始的数百年内,在河西走廊、关中平原、黄海海滨几乎“同时”出现了小麦。甲骨文中用象形字“來”字表示小麦,上半部象征成熟的麦穗,下半部象征麦根。又因为“到来”的来与之发音近似,都是复辅音ml-开头,甲骨文又借用了“來”字表示“到来”。后来为区别同字多义,在“來”字下面加上了表示行走之意的“攵”,成为形声字麥。


だいたい今から五千年前に、小麦は中国に進出した。これより以前、華南と華北は食べる穀物で区別できた。共にアワの類の穀物を食い、醸して飲む文化だった。小麦は現在の新疆に定着した後、中国を東へと向かい、さらに北から南へと回り込んだ。考古学的発掘は言う。竜山文化が始まって数百年のうちに、新疆のオアシス地帯を小麦は進み、(渭水流域の)関中平原と(黄河下流域の)黄海の浜辺で同時に出現した。

来 甲骨文
甲骨文の「来」という字は小麦を表しているが、上半分は実った垂れ穂を描き、下半分は麦の根を描いている。また、外来の作物というゆかりから、「来た」という言葉と音が近く、どちらも上古音でml-で発音し始め、甲骨文の小麦を表す字は、借りて「来た」を意味もした。これ以降、「来」の字にはさまざまな意味が付け加わったため、区別のために小麦を示す字には、攵が付けられるようになった。こうしてこんにちの、「麦」の字が出来たのだ。(wikipedia中文「小麦」条)

のちに孟子は孔子の儒学を、儒教に作り替えて商品化したが、一門をひたすら「偉かった」と担ぎ回る儒者と違い、孟子の頃まではぎりぎり、生身の孔子や弟子の伝承が生き残っていた。それがかろうじて痕跡を留めたのが、いわゆる孔門十哲を規定した論語先進篇の記述である。

孔子 慟哭
先生が言った。「私と共に陳・蔡へと旅した者は、いまはもう門下にいなくなってしまったよ。」

儒者
(注釈)人格力の養成と実践(徳行)では顔淵(顔回)ビン子騫シケン(閔損)ゼン伯牛(冉耕)仲弓チュウキュウ(冉雍ゼンヨウ)が優れ、弁舌の才(言語)では宰我(宰予)子貢(端木賜)が優れ、政治では冉有(冉求)子路が優れ、古典研究(文学)ではユウ(言エン)子夏(ボク商)。(論語先進篇2)

この論語先進篇に挙げられた弟子が、後世孔門十哲と呼ばれた孔子の優れた弟子とされる。この章の後半が、弟子をあざ名、つまり敬称で呼んでいることから、孔子の言葉ではないことはもちろんだ。では誰が書き付けた注釈なのかという疑問が、まず起こってくる。

孔門十哲の推挙者は誰か

孟子
結論を言えば、それは孔子から一世紀後の孟子だ。まずそれ以前には遡れない。なぜかと言えば「徳」の用法で、優秀者として挙げられた顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓は、人格者だった可能性はあるが、孔子生前でいう「徳」のある人物であることを示す記録が無い。

孔子の生前、徳とは抽象的な人徳道徳ではなく、生物の持つ具体的な力や機能を意味し(論語憲問篇35)、狭義には貴族の権力や暴カ、行政処理能力を言う(→論語における徳)。それを身につけた者を君子と言い、君子は単に貴族を意味した(→論語における君子)。

しかし孔子の晩年、弩(クロスボウ)が実用化され(初出は『孫武兵法』)、戦場の主役は貴族の操る戦車から、歩兵の集団へと移った。その結果、習得に金も時間も掛かる「君子」の「徳」の価値は暴落した。民を徴兵して弩を渡せば、すぐ強力な打撃部隊が出来たからだ。
八佾篇 呉起

武人の蛮技などに縁の無い諸賢もおられようから、あえてお節介を記すと、日置へき流弓術を稽古した経験から言えば、弓は当たるものではない。揺れる車上ならなおさらだ。引き絞るには膂力も要る。だが弩なら一度弦を引けばよく、目当ても付いているから素人でも当たる。

洋の東西を問わず、国防の主力が政治的発言権を持たないことなど無い。春秋時代後半以降の中国庶民が、徴兵されながらちっとも政治的発言権を持たなかったのは、命が危ないときは無論、役得がなければさっさと散り逃げたからであり、国防の主力ではぜんぜんなかった。

これは今も変わらない。春秋後半以降の「君子」は、弩の出現によって自分らの特権を世間に説明する手立てが無くなり、かくして「君子」や「徳」の再定義が必要になった。そこで君子を道徳的な教養人、徳を人徳・道徳に書き換えたのが孟子だった。

孟子は孔子の教説の中心である、「仁」も平気で書き換えた。孔子の生前、「仁」は「徳」を具えた「君子」らしさ、つまり貴族にふさわしい教養や技能がある状態を指したが、これを孟子は「仁義」に書き換えて「君子」の要望に応え、憐れみの心のような意味であるとした。

孟子 お笑い芸人
孟子がこうした書き換えを平然と行ったのは、もちろん自分の教説を諸侯に売り飛ばして、高位高禄を得るためだった。そこには極めて冷めた商業主義があり、相手によって売り言葉、つまり言葉の定義を変えたから、ゆえにこんにち「仁」「徳」「君子」の語義は曖昧になった。

以上を前提に孔門十哲に戻ると、「徳」の優秀者として挙げられているのは、何をやったか曖昧な人物ばかりで、貴族らしい仕官の記録があるのは閔子騫しかいない(論語雍也篇9)。すると論語先進篇2で言う「徳」とは、何のことやら分からない、孟子の言う「徳」と断じうる。

以上より、孔門十哲を挙げたのが、孟子を含めそれ以後の人物と判明した。だが孟子は平気で開祖の言葉を書き換えた、希代の世間師ではあるが、没義道と言えるほどウソつきでもない。というのは孔門十哲に、孟子の師匠の師匠の師匠である、曽子が含まれていないからだ。

孔子曽子孔伋子思孟子
現伝儒教の師承系列では、孔子の後を曽子が承け、その後を孔子の孫である子思が承け、その後を間接的に孟子が承けたことになっている。曽子は孔門二代目総帥であり、『孝経』の作者として大いに重んじられる。曽子の優秀を示す伝説も、『論語』にいくらも記されている。

そしてそれら曽子が主人公の論語の記述は、一章残らずニセモノだ(→漢文の示準化石)。曽子は孔子との問答が一章しか記されず(論語里仁篇15)、それもまたニセモノであることから、おそらく弟子では無く孔子家の使用人で、高い確率で孔子の孫・子思のお守り役だった。

それが後世、とんでもなく貴い存在になったのは、ひとえに子思のおむつを替えたからで、こんにち『孝経』が曽子の作などと言おうものなら、少なくともまともな学界では素人扱いされる。だがその真の姿は、一体どの時代まで知られていたか? せいぜい曾孫ひまご弟子までだろう。

寿命が延びたこんにちでも、子・孫・曾孫までは何とか顔を見れるが、玄孫やしゃごの顔を見られる事は少ない。論語の時代の平均寿命は30ほどだが、代わりに初婚や初産が早いと言っても、玄孫を見られた者はやはり少ない。生きたその人を思えるのは、せいぜい曾孫までなのだ。

久之,文承閒問其父嬰曰:「子之子為何?」曰:「為孫。」「孫之孫為何?」曰:「為玄孫。」「玄孫之孫為何?」曰:「不能知也。」文曰:「君用事相齊,至今三王矣,齊不加廣而君私家富累萬金,門下不見一賢者。文聞將門必有將,相門必有相。今君後宮蹈綺縠而士不得(短)[裋]褐,仆妾餘粱肉而士不厭糟糠。今君又尚厚積餘藏,欲以遺所不知何人,而忘公家之事日損,文竊怪之。」


(やっと認知されて、数多い男子の一人と認められて)ほとぼりが冷めた頃、文(のちの孟嘗君)は暇を見て父に問うた。「子の子は何と言います?」「孫じゃ。」「孫の孫は何と言います?」「玄孫じゃ。」「玄孫の孫は何と言います?」「知るか!」

「父上が斉の宰相になってから、三人の王殿下が代替わりされました。その間斉国は全く領土を広げず、父上と我が家のみが万金の富を貯えております。なのに一族一党、ボンクラばかりです。将軍の家には将才のある者が生まれ、宰相の家には政才のある者が生まれると聞きますのにね。

今父上の後宮には、ご婦人方が贅沢のあまり、あや絹や穀物を踏みつけていますが、国軍の兵たちには短い麻服すら満足に与えらません。父上のおとぎ衆は上等な骨付き肉を食い残していながら、兵たちは糠や糟を食べています。

それなのになお、父上は財を積み上げようとなさっている。一体誰に残すおつもりか存じませんが、日増しに我が斉国は壊れていますぞ。だから私は、玄孫の孫は誰かと伺いました。」(『史記』孟嘗君伝)

荀子
高校教科書的には孟子のライバル・荀子は、曽子の師承を引くらしく、著作で曽子を先生扱いしている。その程度は、曽子の曾孫弟子を自称する孟子も変わらない。ただし、孟子は曽子や子思といった宗匠筋に当たる人を、まるで置物のように目の前に置いて論評するくせがある。

孟子曰:「曾子、子思同道。曾子,師也,父兄也;子思,臣也,微也。曾子、子思易地則皆然。」

孟子
孟子が申しました。「曽子は子思と生き方を同じくしている。曽子は師匠であり、年長者だ。子思は、子分であり、幼かった。だが曽子も子思も、立場を変えれば同じだったに違いない。」(『孟子』離婁下59)

冷めた世間師ならではで、論語の曽子偉かった伝説の偽作者が、孟子ではないかという疑いは残るのだが、もし孔門十哲を挙げたのが孟子でなかったなら、ゴマスリ儒者が曽子をねじ込まないわけが無い。外せたのは曽子の姿について、それなりに確信があった者だけだ。

となるとやはり曾孫弟子に当たる、孟子の世代がせいぜいだろう。そして論語をいじくってそのいじり本が後世に伝わったのは、孟子の世代では孟子しかいない。荀子もその可能性はあるが、孟子と違って冷えた目で曽子を見ておらず、あられもなく敬っている。

曾子食魚,有餘,曰:「泔之。」門人曰:「泔之傷人,不若奧之。」曾子泣涕曰:「有異心乎哉!」傷其聞之晚也。

曽子 ウスノロ 弟子
曽子が魚を食べ、食い残して言った。「これを水出しにしよう。」
弟子「水出しだと、あたる事がありますよ。煮た方がいいでしょう。」

曽子はわんわん泣き出して言った。「悪気があったわけじゃないんだ!」水出しがあたるという話を聞くのが遅くて(、以前親に水出しを飲ませたことを思い出したのである)。(『荀子』大略102)

季節によるが、動物性タンパクを水に浸けて放置すればあたるという事実を、曽子は知らないほど愚かだったことになる。現に孔子は名指しで曽子を「ウスノロ」と言っている(論語先進篇17)。話の後半が作り話としても、曽子には孔子の弟子が務まるほどの知能は無かったろう。

一方荀子は、ありもしなかった曽子の親孝行伝説を信じている所から、曽子を十哲から外せるほど、曽子をよく知っていない。荀子は孟子から見れば60ほども年下で、共に子思の没後の生まれではあるものの、60年という時間は、でっち上げが定着して常識化するには十分だ。

もし孟子の証言を信じるなら、孟子の若年期、儒家は滅亡同然だった。子思は食うにも困って魯国を離れ、流浪して宋国にいたと『史記』も記す。世は墨家と列子の学派が分け取って、コーシと言っても「誰それ」と聞き返される有様だった。それを復興したのは孟子である。

荀子 孟子
現代人はうっかりすると、荀子は孟子の対等な論敵と思ってしまうが、孟子あってこその荀子であり、孟子から見ればハナタレ小僧に過ぎない。だから曽子を十哲から外し、その書き込みが本文と間違われるほど古い時代に論語をいじくれたのは、孟子しかいないと言えるだろう。

子路が「政事」なわけ

論語先進篇に記された孔門十哲について、次なる疑問は子路の扱いだ。

まず現伝論語の孔門十哲では「季路」と記されているが、これは前漢中期よりあとの誤記。前漢中期の定州竹簡論語では「子路」と記している。「季路」は顔回子淵の父親であり別人。いみ名が子路と同じなのが原因で、混同されているに過ぎない。

「季路」を「子路」だと言い出したのは、孔子没後967年後に生まれた、古注『論語集解義疏』に「疏」”付け足し”を書き付けた南朝梁の皇侃(論語公冶長篇25)。根拠も記しておらず、とうてい信用するに値しない。

季路≠子路を確認した上で、子路と言えば記録に残る孔子の最初の弟子で、孔門きっての武闘派として知られ、論語の登場回では筋肉ダルマ扱いされ、他の典籍では登場や最期にも、軍事めいた話が伝わっている。

子路の登場

子路見孔子,子曰:「汝何好樂?」對曰:「好長劍。」孔子曰:「吾非此之問也。徒謂以子之所能,而加之以學問,豈可及乎?」子路曰:「學豈益也哉?」孔子曰:「夫人君而無諫臣則失正,士而無教友則失聽。御狂馬不釋策,操弓不反檠。木受繩則直,人受諫則聖,受學重問,孰不順哉?毀仁惡士,必近於刑。君子不可不學。」子路曰:「南山有竹,不揉自直,斬而用之,達于犀革。以此言之,何學之有?」孔子曰:「括而羽之,鏃而礪之,其入之不亦深乎?」子路再拜曰:「敬而受教。」

子路 孔子
子路が(初めて)孔子を訪れた。孔子が言った。「君は何が好きかね?」「長剣です。」

孔子「そんなことを聞いちゃあいない。君の得意な所に、学問で知恵を付ければ、人斬りどころじゃない力が付くから聞いたんだ。」

子路「は? 学問が何の役に立ちます?」

孔子「君主はいさめる家臣がいないと暴君になり、士族は忠告してくれる友人が居ないと乱暴者になる。暴れ馬を押さえるにはムチが要り、弓の保管には矯め具が要る。木は墨縄を受けて真っ直ぐ製材され、人は道理を受け入れて賢くなる。学問を習って分からない所を質問し続ければ、誰だって物静かになる。そうした高尚さを馬鹿にして、それを身につけた人を嫌っているうちは、いずれ捕まって罰を受けるようなことになるぞ。貴族たる者、学ばないわけにはいかないものだ。」

子路「そうですかね。南の山には良い竹が生えていて、手を加えないでも真っ直ぐで、斜めに切って竹槍にすれば、最も強いサイの革でも貫けます。ということは、学問など無用です。」

孔子「ではそれの細いのに、羽根をくくり付け、矢尻を付けてよく研ぎ、射ればもっと厚い革でも通るだろう?」

子路はお辞儀して言った。「その通りです。慎んでお教えを伺いましょう。」(『孔子家語』子路初見1)

子路の最期

方孔悝作亂,子路在外,聞之而馳往。遇子羔出衛城門,謂子路曰:「出公去矣,而門已閉,子可還矣,毋空受其禍。」子路曰:「食其食者不避其難。」子羔卒去。有使者入城,城門開,子路隨而入。造蕢聵,蕢聵與孔悝登臺。子路曰:「君焉用孔悝?請得而殺之。」蕢聵弗聽。於是子路欲燔臺,蕢聵懼,乃下石乞、壺黶攻子路,擊斷子路之纓。子路曰:「君子死而冠不免。」遂結纓而死。


(子路の仕えていた衛国で)孔カイが反乱を起こし、子路は都城の外にいたが、急を聞いて馳せ戻った。そこへ城門から逃げ出した、弟弟子の子羔と出くわした。

子羔「殿様の出公はすでに逃げました。宮殿の門は閉まっています。兄者もこのまま逃げて下さい。わざわざ危ない目に遭うこともないでしょう。」

子路「給料分は、働かないとな。」

どうかご無事で、と言い残して子羔は逃げた。たまたま宮殿に入る使者がいたので門が開き、子路はどさくさに紛れて宮殿に入った。そのまま叛乱の首謀者である蕢聵カイカイを探し歩いたが、蕢聵は孔悝とともに物見櫓に上っていた。

子路「蕢聵どの、ひょろひょろの孔悝などを手下にしてこの騒ぎですか。渡しなされ、ぶった斬ってやります。」

もちろん蕢聵は言う通りにしない。子路が下から物見櫓に火を掛けたので、恐れた蕢聵は手下の石乞と壺エンを降ろして子路と戦わせた。二人の手勢の誰かが、子路の冠ひもを刃物で断ち切ると、子路は「貴族は死んでも冠を脱がない」と言って、紐を結び直して死んだ。(『史記』仲尼弟子列伝29)

これに加え、孔門以外からの評価も、子路は武将として扱われていた。

「王之將率有如子路者乎?」曰「無有。」


「(楚)王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」(『史記』孔子世家50)

だが、子路が武将として戦った記録は、最期の話程度で、あとは一つも伝わっていない。指揮経験の無い者を、将軍として優れている、と、戦乱の世の楚王が評価するだろうか? となると結論は二つで、子路の武勇伝がウソであるか、武勇伝が徹底的に記録から消されたかだ。

消されたと考えるには無理がある。そもそもでっち上げまでして、子路を筋肉ダルマ扱いしたのは儒者なのだ。儒者は歴代、記録の管理を独占したから、都合の悪い記録は消し得たが、都合のいい話を消す動機が無い。子路は、個人武芸は優れていたかも知れないのがせいぜいだ。

孔子の直弟子は子路ならずとも、戦車の操縦と弓術を、必修科目として稽古した。これらが出来ないと、仕官できず貴族になれなかったからだ。だが後世の儒者の九分九厘はひょろひょろで、箸と筆と賄賂より重い物を持とうとせず、ひたすら武人をいやしんだ。

もちろん孟子もその一人で、弟子たちの優れた項目として、軍事を挙げるなど思いもしなかったのかも知れない。そこで子路を、代わりに政事の達者に選んだのかも知れないが、子路には武勇伝を証す記録が無い代わりに、政才を評される根拠はある。

孔子の弟子の中で、最初に仕官したのは子路である。仕えたのは筆頭家老の季孫家で、その根拠地である費邑の代官を務めた。これは季孫家の孔門に対する好意と、子路への高い評価が伴っているだろう。何せいきなり根拠地の代官である。よほど期待したに違いない。

孔子が魯を離れて衛に赴くと、子路は衛の蒲邑を与えられた。「蒲大夫」と『史記』にあるから、代官ではなく領主である。春秋時代、邑を領有する大夫=家老階級を卿と言い、身分は国公のそれに次ぐ(→論語時代の身分制度)。衛霊公の好意と期待が分かるというものだ。

その生活を後に子路は述懐している。

子路見於孔子曰:「負重涉遠,不擇地而休;家貧親老,不擇祿而仕。昔者由也事二親之時,常食藜藿之實,為親負米百里之外。親歿之後,南遊於楚,從車百乘,積粟萬鍾,累茵而坐,列鼎而食,願欲食藜藿,為親負米,不可復德也。枯魚衘索,幾何不蠹;二親之壽,忽若過隙。」孔子曰:「由也事親,可謂生事盡力,死事盡思者也。」

子路 あきれ 孔子

子路が孔子に会って言った。「重い荷物を背負って遠くに行くなら、場所を選ばずに休み、家が貧しくて親が年老いたら、えり好みせずに宮仕えをする。昔私は両親に仕えていたとき、野のアカザや豆の実を取って食べていました。親のために百里(40.5km)の道を米を背負って運びました。

ところが親が亡くなった後、南方の楚国に向かった頃には、車百乗を従え、積んだアワは万鍾、座布団を重ねて座り、かなえを並べて豪勢な食事を摂りました。もう一度アカザを食べよう、親のために米を背負おうと願っても、もう二度と出来はしません。

干し魚を縄でぶら下げておいても、いつまで虫が食わずにいられましょうか。両親の寿命というものは、戸の隙間を過ぎ去るようなものです。」

孔子「子路よ、お前は親御さんが生きている間は力を尽くし、亡くなってからは思いを尽していると言っていいな。」(『孔子家語』致思12)

ただしその蒲邑は難治の地で、その安撫を霊公は期待したのだろう。『史記』によると、赴任に当たって孔子は、蒲邑の難治であることを子路に警告し、宣撫方を教えている。また論語でも、当時司法官を兼ねた行政官として、子路が優れていると評価した(論語顔淵篇12)。

以上を踏まえると、子路は政事に優れた弟子として挙げられる資格が有るだけでなく、その真の風貌は、武人と言うより行政官だったと言うべきだろう。ただし武勇に優れていたのは間違いない。古代に自立したまちの連中を大人しくさせるには、ひょろひょろでは無理だからだ。

子路治蒲,見於孔子曰:「由願受教於夫子。」子曰:「蒲其何如?」對曰:「邑多壯士,又難治也。」子曰:「然。吾語爾,恭而敬,可以攝勇;寬而正,可以懷強;愛而恕,可以容困;溫而斷,可以抑姦。如此而正不難矣。」

子路 驚愕 孔子 せせら笑い

子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。

子路「一つお教えを賜りたく。」
孔子「蒲の統治のことじゃな? 町人はどんな者どもかね。」
子路「まちに武装したヤクザ者が、大勢で大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」

孔子「そうかね。じゃ、こうしなさい。領主のお前がまず腰を低くしなさい。そうすればヤクザ者も言うことを聞く。裁判は刑罰を軽めにし、法も曲げないようにしなさい。そうすれば力んでいる連中もなついてくる。人として町人を憐れみ、思いやってやりなさい。そうすれば貧乏人が支持してくれる。情けをかけるべき時にかけ、冷徹を見せるべき時に見せなさい。そうすれば悪さを働く者はいなくなる。この原則をしっかと曲げずに治めれば、手が付けられるようになるだろうよ。」(『孔子家語』致思19)

※同じ話が違う形で伝えられている。『史記』仲尼弟子列伝・子路を参照。

侮りがたい冉氏一族

冉求 冉有
同様に政事の達者として記された冉有の方に、却って武将としての記録がある。魯哀公十一年(BC484)、東の大国・斉の軍勢が押し寄せ、放浪中の孔子より一足先に帰国し、筆頭家老・季孫家の執事を務めていた冉有は、魯軍半分の司令官として出陣している(樊遅を参照)。

論語の人物・冉求子有も参照。

この時季孫家は、私兵を出すのを渋っていたが、冉有の説得で派兵している。執事の言うことだからではなく、子飼いの兵を預けるからには、冉有に将才を認めなければ出来ない事だ。そして冉有にはほのかではあるが、その一族が軍事集団だった可能性がある。

論語の描く春秋時代、血統が立て前の姓と違って、氏は同業集団でも名乗り得た。孔門十哲にに冉伯牛・冉雍仲弓が挙がっているが、恐らく同族と言えるだろう。そして同じ魯国で冉氏を名乗る者が、すでに戦場働きをしていた記事が『左伝』にある。

冉豎射陳武子,中手,失弓而罵,以告平子曰,有君子白皙,鬒鬚眉,甚口,平子曰,必子彊也,無乃亢諸,對曰,謂之君子,何敢亢之

(魯昭公二十六年=BC516、斉が攻め寄せた。)冉氏の若者が、(斉の上級貴族)陳武子に弓を引き、矢を手に当てたため、陳武子は弓を取り落として大声で怒鳴った。あとで若者が、魯国筆頭家老の季平子に報告した。

「敵に色白の貴族がいまして、モジャモジャひげにゲジゲジまゆ毛。その人を射貫いたところ、さんざんわめいておりました。」

季平子「そりゃ子彊=陳武子だな。何で首を取らなんだ?」

若者「仮にも貴族です。いきなり首を取るのは無礼と思いまして。」(『春秋左氏伝』昭公二十六年)

新参者の士分だったからこそ、敵の君子=貴族に遠慮して首を取らなかった。将棋で歩はいきなり王将を取れないのと同じ騎士道精神、いや君子道精神と言うべきか。だがこの冉氏の若者とは、冉有ではない。冉有はまだ六歳だからだ。さらに14年後。

八年,春,王正月,公侵齊,門于陽州,士皆坐列,曰,顏高之弓六鈞,皆取而傳觀之,陽州人出,顏高奪人弱弓,籍丘子鉏擊之,與一人俱斃,偃且射子鉏,中頰,殪,顏息射人中眉,退曰,我無勇,吾志其目也,師退,冉猛偽傷足而先,其兄會乃呼曰,猛也殿。

…公侵齊,攻廩丘之郛,主人焚衝,或濡馬褐以救之,遂毀之,主人出,師奔,陽虎偽不見冉猛者,曰,猛在此必敗,猛逐之,顧而無繼,偽顛,虎曰,盡客氣也。

定公八年(BC502)、春、正月。定公は斉に侵入し、陽州の城門に迫った。戦を前に将校たちが車座になって、「顔高どのの弓は六鈞(46kg)もの強さだと」と言って、弓を回していじくっていた。そこへ陽州の守兵が飛び出してきたので、顔高はとっさに他人の弱い弓を奪って構えたが、籍丘子鉏が撃ちかかり、巻き添え一人と共に撃ち倒された。偃且が子鉏を射たところ、頬に当たって倒れた。顔息は敵兵の眉間を射貫いて退却したが、「畜生。目を狙ったのに」と悔しがった。冉猛はつま先に負傷した振りをしたが、その兄の冉會が怒鳴りつけた。「お前は殿を守れ!」

定公の軍は斉を進み、廩丘の城壁を攻め立てた。城門を壊すための大槌が車に乗せられて前進したが、守兵はそれに火を付けた。魯兵の誰かが馬衣を濡らしたので火を消したので、とうとう城門を突き破った。ところが守兵が打って出たので、魯軍は混乱して逃げ出した。季氏の執事で指揮官の陽虎は、冉猛を見ない振りして言った。「あ奴がいなくてよかった。真っ先に逃げ出したろう。」それを聞いて奮い立った冉猛は、敵軍めがけて突進したが、振り返ると誰も居ない。そこで戦車からわざと墜ちた。それを見て陽虎が苦々しく言った。「芝居をやっているだけだ。」(『春秋左氏伝』定公八年2)

上から冉猛・冉會といった冉一族が、戦車に乗る士分として出陣している事が分かる。だが冉氏は決して全き貴族とは言えない。孔子がその一人の冉雍を、「低い身分の生まれだろうと、気にするな」と慰めているからだ(論語雍也篇6)。これらより古い冉氏の活動記録も無い。

となると冉氏は、孔子と同時代に勢力を伸ばした、新興士族だったのだろう。おそらくはもと野人と呼ばれる農民だったのだろうが(→国野制)、一族から養成に時間と金がかかる戦士を何人か出せるようになり、士族の端くれと見なされてから、時が古びていないと思われる。

春秋のいくさは、そんな新興傭兵団の稼ぎ場、名乗り上げ場でもあった。

公賞東郭書,辭曰,彼賓旅也,乃賞犁彌

斉の景公が東郭書にいくさの褒美を取らせようとすると、こう言って辞退した。「(自分の後ろから敵城に攻め入った)犂弥どのは陣借りのサムライ。稼がせて差し上げねばなりますまい。」結局褒美は犂弥のものとなった。(『左伝』定公九年)

だが季氏の執事である陽虎の配下として出陣している所から見て、季氏にとってはなじみのある氏族であり、武力の提供者だった。そして冉氏はもちろん、春秋時代の身分制社会にあって、氏族の地位向上を目指しただろう。そこへ現れたのが、孔子とその塾だった。

冉伯牛
年齢から見て、冉伯牛はその長老格だったろう。伯牛は孔子をよく観察したのち、氏族の優れた若者である、冉有と冉雍を入門させたと思われる。もちろん孔子の下で、貴族にふさわしい技能と教養を身につけるためだ。武芸だけなら氏族内で教えうるが、教養はそうはいかない。

二人の入門は恐らく、孔子が昭公に付き合って、一時的に斉に亡命したのから帰国した頃(昭公二十七年、BC515、孔子37歳)だろう。それまでに孔子は、すでに門閥家老の一家、孟孫家の当主から見込まれて、次期当主とその弟の教育を委ねられている(『史記』孔子世家)。

そして孔子もまた、まだ売り出し中の時期だった。代官や宰相になるのは五十前後のことで、それまでは中堅の役人に過ぎない。そこへ筆頭家老の季氏と縁が深く、自前の武力を持つ冉氏が入門したことは、孔子にどれほど力を与えたか分からない。

おそらくだが、それまで孔子は戦車チャリオットの技術は持っていったが、教えるための戦車と馬を持っていなかったはずだ。馬は現代でも高額で、戦車となればそれが2頭か4頭要る。中堅役人には養えない。必ずやそれを持つ誰かの援助で教え始めたはずで、それは冉氏こそふさわしい。

閲覧者諸賢、思い候らえ。現代で戦車タンクを持つなら、車の代金ははした金で、まず司法を黙らせる権力が要り、次に好き勝手に走り回らす土地が無ければならず、銃弾砲弾を買いそろえ、バカスカ飲み潰す燃料を用意し、珍無類の車を整備する腕利き整備士を雇わねばならない。

冉伯牛亡き後(論語雍也篇10)、冉氏の頭領はおそらく冉有が継いだ。放浪中の孔子より先に帰国して季氏の執事を務めたのは、そのコネを生かして孔子の帰国工作をするためだった。それが実って孔子は帰国できたのだが(『史記』孔子世家)、その後冉有との関係は微妙になった。

季氏の増税策に冉有は協力し、それが元で孔子が破門したかのような事を言っている(論語先進篇16)。また、公務で遅くなった冉有に、まるでイヤミのようなことを言っている(論語子路篇14)。その史実性の当否は個別に検討が要るが、仲良し師弟、では無くなった可能性がある。

論語で冉有を冉子=冉先生と、孔子と同格に記した箇所がある(論語雍也篇4論語子路篇14)。定州竹簡論語により、論語先進篇12もその可能性がある。冉有は生涯孔子を尊敬して揺るがなかっただろうが、冉氏の勢力と筆頭家老執事の地位は、それを許さなかったのだ。

もっと侮れない顔氏一族

顔氏を検討する前提として、論語の時代の「顔」とは何かを確認しよう。

顔 金文 顔 字解
九年衛鼎・西周中期

初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。春秋末期までの金文では、氏族名に用いた。”表情”の用例は戦国時代以降。(論語語釈「顔」)

顔回
さて孔門十哲には、徳行に顔淵=顔回も挙げられている。孔子が最も期待した弟子とされ、現伝儒教では孔子に次ぐ尊崇を捧げられており、孔子と同格の顔子という称号さえある。だがその神格化が始まったのは漢帝国になってからで、戦国時代の孟子は呼び捨てにしている

荀子も顔淵という通常の敬称を用いただけ。ところが前漢になって、いわゆる儒教の国教化を進めた儒者・董仲舒は、公羊学を興すと共に、顔回神格化を始めたらしい。『漢書』芸文志に載る「公羊顏氏記十一篇」は、その手に成ると思われるが、顔回を題にした初の書だ。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

そして前漢宣帝期の定州竹簡論語に、現伝の論語と同じ、歯の浮くような顔回へのゴマスリがこれでもかと含まれていることから、神格化は董仲舒のしわざだと見てよい。だが顔回は生前何をしたか、さっぱり記録が残っていない。神格化伝説を除けばほとんど皆無だ。

俊秀を讃えられた筈なのに、仕官の記録が無い。『史記』には孔子放浪中の問答があるから、亡命には付き合ったのだろうが、それ以外の活動が見当たらない。だが歴史は時に、語らないことで何かを語る。顔回は、人に語ないことをせっせとやっていたのだ。

孔子の母を顔徴在といい、名も無き一人の巫女だった。国家の祭殿に仕える神官と違い、一般の巫女は客を求めて放浪せねばならなかった。母は一人で、あるいは早くに父を亡くした幼い孔子の手を引いて、中原諸国を放浪したのだろうか。そんなことが出来るわけがない。

春秋時代、城壁に囲まれた邑を一歩外に出たらそこは無法地帯で、言葉も通じない連中がうろついた。おまけに当時の中国には、トラやヒョウはおろか、サイもいればゾウもいる。そんなサファリパークのサバイバルを、女子供だけで出来るわけが無く、客の目当ても付かない。

詳細は論語郷党篇16余話「ネバーエンディング荒野」を参照。

だが顔徴在にはそれが可能だった。顔氏一族だったからだ。顔氏一族は上掲の左伝に見えるように、強弓のつわものを出しているばかりか、魯・斉・衛といった中原諸国を股に掛けた、国際任侠団体を握っていた。孔子は亡命の際、真っ直ぐに衛に住まう顔濁鄒親分を訪れている

顔濁鄒は泰山と並ぶ中原の名山である梁父山に山塞を構え諸侯国に傭兵を提供する大親分だった。顔氏は巫女という放浪の情報ネットワークと、傭兵団という武力を併せ持つ氏族だった。これが用心棒兼案内人として孔子母子の旅を可能にし、のちに孔子の後ろ盾となった。

上掲「顔高どのの弓は六鈞(46kg)もの強さだと」と『春秋左氏伝』にある顔高も、おそらくは顔氏一族の有力な武人だったと思われる。年代は定公八年だから、孔子が中都の代官(宰)に任じられる一年前で、まだ中堅官僚として帳簿仕事に追われていた頃。

そして孔子がのちに後ろ暗い政治工作をしたことは、孔子とすれ違うように生きた墨子が証言している。工作の背景には諜報活動があったはずで、諜報活動にはスパイだけでなく、監視役や元締め役が必ず要る。その孔門KGB長官に誰がふさわしいかと言えば、顔回ただ一人だけ。
KGB

なにせ誰も信用ならない諜報界である。同じ氏族でなければ統制が取れないだろう。顔回と同様に何をしたのかよく分からない、公冶長や宰我には旅の伝説があるが、顔回は孔子の下を離れた記録がない。監視役の二人と違って、長官の顔回は動くわけにいかなかったからだ。

集まった情報は分析家によってノイズをとりのそき、背景を見渡さねば、ガセに過ぎないことが多い。諜報の元締めとは、バカに務まる職ではないのだ。他の弟子と違い、たったの三ヶ月で孔子の教学を覚えてしまった顔回は(論語雍也篇7)、その点でもうってつけだった。

だから顔回が世を去ったとき、孔子が他の弟子とは違う深い嘆きをあらわにしたのは(論語先進篇9)、孔子の政治活動に対する顔回の貢献を示すとともに、その死が自然死ではなかったことを想像させる。やはり諜報の世界は冷酷で、顔回は非業の死を遂げざるを得なかったのだ。

論語解説
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