論語の人物:有若子有(ゆうじゃく・しゆう)

実在も疑わしいのになぜか尊称されている有名弟子きっての謎の人

至聖先賢半身像「有若」
国立故宮博物院蔵

略歴

生没年未詳。ただし孔子との年齢差については、『史記』では46年少、『孔子家語』古本では33年少、現行本では36年少とする。吉川本では13年少と言うが、典拠不明。没年については、『礼記』檀弓下に「有若喪に之(つ)けり、悼公、吊焉(とむらいぬ)」とあるから、魯国公・悼公の在位年であるBC467-BC437の間とされる。

姓は有、名は若、『孔子家語』によれば字は子有。孔子没後になぜか有子(有先生)と尊称され、意気込んで論語を読み始めた人に、第二章でワケの分からない、実につまらぬお説教を垂れて、読者のやる気を失わせる罪な人。『孟子』によれば、顔が孔子に似ていたという。

論語での扱い

論語には三回登場し、その第二回に訓戒を垂れる偉い人として登場し、有子と尊称されているにもかかわらず、当人の遠回りなお説教が記載されただけで、一体何をした人なのか全く分からない。孔子との問答の記録もない。実在さえ疑わしい謎の人。

他の典籍での扱い

『孟子』では、歳が同じか年下の、曽子の門人扱いにされている。これは曽子に対するひいきの引き倒しもあろうが、有若とは一体誰だったのか、当時すでにほとんど分からなかったに違いない。

孟子も含めて多くの儒者をこき下ろしている荀子も、有若は全く無視しているか沈黙している。時代が下って、もっと誰だったか分からなかったのだろう。

それ以外の儒教関係書にも、有若は出てこない。墨子や法家も何も言っていない。『史記』には『孟子』を引いたと思われる、子張子游子夏による、有若本尊化計画を記しているが、有若がボンクラだったので、皆あきれて降ろされたと書く。以下引用。

論語 観象知雨

「孔子既に沒して、弟子思い慕りて、有若の状、孔子に似るをもって、弟子相与(はか)りて共に師と為す。之(これ)を師とすること夫子の時の如き也。他日、弟子進みて問うて曰く、昔夫子の当(まさ)に行かんとするに、弟子を使(し)て雨具を持たしむ。已而(すで)にして果たして雨ふれり。
弟子問うて曰く、夫子何を以て之を知るかと。夫子曰く、詩に云わず乎(や)、月の畢(ヒツ)于(を)離るれば、滂沱(ボウダ)降ら俾(しめ)矣(ん)。昨暮、月は畢に宿らざる乎と。他日、月畢に宿るも、竟(つい)に雨ふらず。また商瞿、年長(た)けて子無し、其の母、為に室(めかけ)を取らんとす。孔子之を斉に使いせしめんとするに、瞿の母、之を請う。孔子曰く、憂うる無かれ。瞿の年四十にして後、当(まさ)に五の丈夫子有らんと。已而(すでにして)果たして然り。問う、夫子は何を以てか此(これ)を知るやと。有若黙然として、以て応(こた)える無し。弟子起ちて曰く、有子よ之(これ、上座)を避けよ、此(これ)子之座にあらざる也と。」

孔子が亡くなった。弟子は思慕のあまり、有若の見た目が孔子に似ていたので、相談して有若を二代目の師匠に据えた。一門が有若を敬う態度は、孔子と同じだった。ある日、ある弟子が有若に問うた。

「昔、孔子先生がお出かけになる時に、お天気だったのですが、弟子に雨具を持たせたことがありました。そうしたら雨が降りました。弟子が孔子先生に問いました。先生はどうして分かったんですか、と。そうしたら孔子先生は、詩にあるだろう、畢の月が終われば、大雨が降ると。昨晩、月は畢の位置にあっただろう、と。しかし別の日、月は畢にありましたが、とうとう雨は降りませんでした。

また商瞿が歳を取ったのに、子が無いので、その母がめかけを取ろうとしました。孔子先生が商瞿を斉へ使いに出そうとすると、母親がめかけを下さいと願いました。そうしたら孔子先生は、心配するな、四十歳を過ぎたら、丈夫な五人の男の子に恵まれるよ、と言いました。この予言も当たりました。そこでです、なぜ孔子先生はこれらが分かったのですか。」

有若は黙ったまま、答えられなかった。弟子は立ち上がって言った。
「有先生、その座を降りなさい。そこはあなたが座っていい場所ではありません。」

また『左伝』では、魯哀公八年(BC487)の対呉防衛戦で、広場で三度高飛びをして兵役検査に通り、出陣するが、「力不足で殺されに行くようなものだ」と言われ沙汰やみとなった。

微虎、宵(よい)に王の舍を攻めんと欲し,私属(シショク)の徒七百人をもって、幕庭於(に)三たび踊らせ、卒(ソツ)三百人となすが、有若、これに与(くわわり)焉(ぬ)。稷門(ショクモン)之内に及ぶに、或るひと季孫に謂いて曰く、以て呉を害するに足らず、而(し)て多く国士殺されん、已(や)めるに如(し)かざる也と。乃(すなわ)ち之を止む。

魯の大夫・微虎が、呉王の宿舎に夜襲をかけようとし、自分の部下七百人を、陣屋の広場に集めて三たび踊らせ、三百人の部隊を編成した。有若もこれに加わった。隊列を組んで穀物神の鳥居の内まで進んだところ、ある人が筆頭家老の季孫氏に言った。「これでは呉王を襲うには弱すぎる。むざむざ貴族の子弟を殺されるだけだ。やめた方がいい。」そういうわけで取りやめになった。

孔子より48年少とすればこの時16、36とすれば28、吉川本が言う13とすれば51になる。当時の平均寿命が30代前半だったことを考えると、51の超老人を徴兵検査に引っ張り出したことになる。若かったとしても、いかにも頼りない青びょうたんで、人のあわれみを買ったとみえる。

あるいは「有若与焉」とあるのが、そもそも「若きも与(あずか)りぬる有り」(若者も参陣した)と読むべきで、有若個人とは関係がないかも知れない。

論語での発言

孝行者は、不作法もしないし暴れて国も荒らさないのである。君子の基本は孝行である。君子は基本に努めるものである。だから君子にとって最上の徳である仁も、孝行が基本なのかも知れないと思われる。わかったかお前たち。(学而篇)

作法の目的は、人間関係を和ませることにある。我々が模範とすべきいにしえの聖王も、作法を通じた和みをよしとされ、何事も、なごみを目指して作法に励んだ。しかしそれでは作法が無意味になる場合がある。和めばいいと考えるのがそれで、作法でけじめをつけなければ、作法に大した意味はなくなってしまう。(学而篇)

正直を貫くにも、正義に従っていれば、言ったことを実行できるのである。うやうやしさも作法にかなっていれば、恥ずかしい思いをしなくて済むのである。誰かとつるむにも、親族とつるむようにしていれば、たいそう仲むつまじく過ごせるのである。(学而篇)

殿様、不作というなら今年は、十分の一税でどうでしょう。…それでは足りない? 民が足りているなら、殿も足りるはず。逆もまたしかりでございますよ。(顔淵篇)

論語での記述

  1. 有子曰、「其爲人也孝弟、而好犯上者、鮮矣。不好犯上、而好作亂者、未之有也。君子務本、本立而道生。孝弟也者、其爲仁之本歟。」(学而篇)
  2. 有子曰、「禮之用、和爲貴。先王之道、斯爲美。小大由之。有所不行、知和而和、不以禮節之、亦不可行也。」(学而篇)
  3. 有子曰、「信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。」(学而篇)
  4. 哀公問於有若曰、「年饑、用不足、如之何。」有若對曰、「盍徹乎。」曰、「二、吾猶不足、如之何其徹也。」對曰、「百姓足、君孰與不足。百姓不足、君孰與足。」(顔淵篇)

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