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論語の人物:言偃子游(げんえん・しゆう)

力仕事を嫌うがやらせも辞さない冠婚葬祭業者の大親分になった弟子

至聖先賢半身像「子游」

国立故宮博物院蔵

略歴

BC506-BC443?とされるが、この生年は『史記』によったもので、『孔子家語』によれば孔子より35年少(BC516生)。出身地もそれぞれ異なり、『史記』では、弟子中唯一南方の、呉国出身。一方『孔子家語』では魯国出身。姓は言、名は偃、字は子游。古典研究(文学)の才を孔子に評価された、孔門十哲の一人。

游 字解
なお「子」は貴族や知識人に対する敬称で、「游」は水の上にプカプカ浮かんで遊ぶ・どこかへ行くこと。詳細は論語語釈「游」を参照。

子游とは本名の「偃」に”水を防ぎ止める”の意味があるので、それに呼応したあざ名だが、名乗りはお堅いがやることはちゃらんぽらんだ、という隠された意味を想像させる。

論語を素直に読むなら、孔子が南方諸国を遍歴した際に同行しており、『史記』との組み合わせで、その際に弟子入りしたとも言われる。さらに孔子没後は帰郷して江南に儒学を広めたとされ、「南方夫子」と呼ばれた、とwikipediaなどにあるが、先秦両漢の史料では確認できない。

ただし子游が、魯国南部の武城のまちの代官になったことは論語にも記されており、やらせの演出と思われるほど大いに礼楽を励まして孔子を喜ばせているから、帰郷や南方ばなしは、それに尾ひれが付いて、悪気無くでっち上げられた後世のラノベである可能性がある。

史書もそうだが中国の古典というのは、開祖が褒めた者は顔回のようにどんどん神格化され、けなすと宰我のようにどんどん人でなし扱いされる。「君子はそういうゴミ溜めに落ちないよう気を付けるものだ」(子張篇)と子貢が言ったのももっともで、読む際には注意を要する。

一方で中国儒者は別のことを言う。

說文:「遊,旌旗之流。從㫃,汓聲。」漢石經于子張篇作「子斿」。「斿」卽「遊」省。游從,㫃說文:「㫃,旌旗之遊㫃蹇之貌。從屮曲而垂下,㫃相出入也。讀若偃。」是㫃、偃聲同。

程樹德
説文解字では、「遊はのぼり旗のひらめくさま。㫃の字形に属し、汓の音」といい、漢石経子張篇では「子斿」と書いている。「斿」は「遊」の略体。游は㫃の字形に属す上、説文解字は、「㫃は、のぼり旗が風にひるがえるさまをいう。屮の字形に属し曲って垂れ下がり、㫃は吹かれたり垂れたりする。偃のように発音する」という。するとこの㫃は、偃と音が同じだ。(『論語集釋』為政篇7)

「斿」のカールグレン音はd(平)、「偃」はʔi̯ăn(上)。真に受ける話ではないようだ。

論語での扱い

子游
登場は八カ章と少ないが、人となりを語るエピソードとして、ヤラセも辞さない、やや如何わしい人物だったことを思わせる(論語陽貨篇4)。ただし直弟子中の歳年少グループの一人であり、顔回・子路や子貢と言った大物に比べると、目立たなかったに違いない。ただし子夏同様、自分の門人を取っているから一派閥の長であったとは言える。下記のように礼法、とりわけ葬儀にうるさかったから、それを専攻したい門人が集まったのだろう。

儒者は仕官するのでなければ、食う手段は葬儀屋しかなかったから、子游ゼミ?は流行っても不思議ではない。

他の典籍での扱い

礼法の中でも葬祭に関する孔子との問答が目立つ。『孟子』によれば孔子没後、子夏・子張と共に有若を顔が似ているからと言って孔子の後継者に据えようとした一人である。たしかに葬儀屋・僧侶としての子游にとって、仏像を据えるならお釈迦様に似ていた方がいいだろう。

荀子
『荀子』非十二子では子游グループの葬儀屋を、「儒の憚事(タンジ、葬儀のこと)を偸 (ぬす)み、廉恥無く(恥知らずにも)而て飲食を耆(キ、さしずすることだがここでは音通して=嗜、飲み食いする)し、必(いや)しくも(軽々しく)君子固(もと)より力を用いず(君子はいやしい力仕事なんてしない)と曰う、是れ子游氏之賤儒(センジュ、腐れ学者)也」と激しく非難している。

その他の記録は論語の焼き直しか付け足しなので、孔子没後の回想談であるのを一例引く。

『說苑』貴德
「季康子、子游に謂いて曰く、仁者は人を愛するかと。子游曰、然り(そうです)と。人また之(=仁者)を愛するかと。子游曰く、然りと。康子曰く、鄭の子産(名政治家として知られた)死して、鄭人の丈夫(成人男性)は玦珮(玉のアクセサリー)を舍(す)て、婦人は珠珥(みみだま、イヤリング)を舍て、夫婦こもごも巷(まちかど)に哭(な)き、三月の間竽琴(ウキン、笛と琴)之声を聞かず(みんなアクセサリーを放り出し、三ヶ月間歌も歌わないほど哀しんだ)。しかすでに仲尼(=孔子)之死せるや、吾れ不魯國之夫子(かのお人)を愛するを閒ママ(き)かざり奚也てん(孔子が死んでも、我が魯国の連中は知らん顔していた)と。子游曰く、譬(たと)えるに子産之夫子と比べるは、其れ猶お浸水之天雨と比べるに似たるか(地上の水と天の雨との違いに似ています)。水の浸(ひた)るの及ぶ所は則ち生き、及ばざるは則ち死す、斯(ここ)に民之生くる也(や)、必ず時の雨を以てす(雨が降らねば、みんな干上がってしまいます)。既に以て生くれば、其の賜(たまわりもの)を愛する莫(な)し(すでに雨が降った後では、その恵みを有り難いとも思いません)。故に曰く、譬(たと)えるに子産之夫子と比べるは、其れ猶お浸水之天雨と比べるに似たるかと。

論語での発言

1

主君にべたべたするとへこまされるし、友人にべたべたすると嫌がられる。(里仁篇)

2

高台に登っても遠くまで見えないというのは、まっすぐな筋を通さないからで、それを公務で行ってはならないと聞いています。(雍也篇)

*澹臺滅明は人名でないと解した場合の訳。

3

先生は言いましたよね、君子は学ぶと人を愛し、凡人は学ぶとよく働くと。(陽貨篇)

4

子夏の門人は、チマチマとした礼儀作法ばかり達者だな。(子張篇)

5

葬儀では哀しむ、それでよろしい。(子張篇)

6

子張は才覚があるのに、人でなしだな。(子張篇)

論語の記述

  1. 子游問孝。子曰、「今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬、何以別乎。」(為政篇)
  2. 子游曰、「事君數、斯辱矣。朋友數、斯疏矣。」(里仁篇)
  3. 子游爲武城宰。子曰、「女得人焉耳乎。」曰、「有澹臺滅明者、行不由徑。非公事、未嘗至於偃之室也。」(雍也篇)
  4. 子曰、「從我於陳蔡者、皆不及門也。」德行、顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語、宰我、子貢。政事、冉有、季路。文學、子游、子夏。(先進篇)
  5. 子之武城、聞弦歌之聲、夫子莞爾而笑、曰、「割雞焉用牛刀。」子游對曰、「昔者、偃也聞諸夫子曰、『君子學道則愛人、小人學道則易使也。』」子曰、「二三子。偃之言是也、前言戲之耳。」(陽貨篇)
  6. 子游曰、「子夏之門人小子、當洒掃應對進退則可矣、抑末也。本之則無、如之何。」子夏聞之曰、「噫。言游過矣。君子之道、孰先傳焉。孰後倦焉。譬諸草木、區以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎。」(子張篇)
  7. 子游曰、「喪致乎哀而止。」(子張篇)
  8. 子游曰、「吾友張也、爲難能也、然而未仁。」(子張篇)

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