解蔽10
自古及今,未嘗有兩而能精者也。曾子曰:「是其庭可以搏鼠,惡能與我歌矣!」
昔から、二つ心を持って(集中しないで)一つの技術の達者になった者はいたためしがない。
曽子が言った。「指揮棒でネズミを叩いてもよいと思うような奴と、私はどうして一緒に歌う気になるだろうか。」
金谷本「庭」を「莚」”むち”と釈文している。「庭」ではどう工夫しても読めないので、これに従った。
大略78
曾子曰:「孝子言為可聞,行為可見。言為可聞,所以說遠也;行為可見,所以說近也;近者說則親,遠者悅則附;親近而附遠,孝子之道也。」
曽子が言った。「孝行者は聞くに値することを言い、見るに値することをする。聞くに値することを言えば、遠方の者を教化できる。見るに値することをすれば、近所の者を教化できる。近所の者が教化されたら慕われ、遠方の者が教化されたら懐かれる。近いものに慕われ遠い者に懐かれるのが、孝行者の道だ。」
大略79
曾子行,晏子從於郊,曰:「嬰聞之:君子贈人以言,庶人贈人以財。嬰貧無財,請假於君子,贈吾子以言:乘輿之輪,太山之木也,示諸檃栝,三月五月,為幬采,敝而不反其常。君子之檃栝,不可不謹也。慎之!蘭茞槁本,漸於蜜醴,一佩易之。正君漸於香酒,可讒而得也。君子之所漸,不可不慎也。」
曽子が斉国を出ようとすると、晏子(晏嬰)が郊外まで見送りに出た。
晏子「私はこう聞いております。別れに臨んで君子は人に言葉を贈り、庶民は財貨を贈ると。私は貧しくて、ここは君子のふりをして、あなたに言葉を贈りましょう。
車の丸い輪は、泰山の木から材を切り出しますが、型にはめて三ヶ月から五ヶ月ほどすると、車軸の部品になり果てて、すり切れて壊れても、もとの真っ直ぐには戻らない。君子は型にはめられるのを、十分気を付けなくてはいけない。どうぞご用心を。
(元からかぐわしい)蘭茞(香草のたぐい?)や槁本(ササハソラシ)なら、甘酒に浸しておけば、玉飾りと替えられるほどの価値が出ます。しかし主君の間違いを正すには、香酒に浸けるようにしてものを言い、やっと僅かな進歩をさせ得るに過ぎません。君子は何に浸るかを、気を付けないわけには行かないのです。」
晏嬰(?-BC500?)は孔子(BC551-BC479)より年上で、曽子(BC505-?)とは時代が合わない。曽子が孔子と関わりを持った頃、晏嬰はすでに他界していたはず。戦国末ではすでに、そういう物理的な事実が分からなくなっていたようだ。
「別れに臨んで…」は『史記』孔子世家にある老子の言葉によく似ている。
大略102
曾子食魚,有餘,曰:「泔之。」門人曰:「泔之傷人,不若奧之。」曾子泣涕曰:「有異心乎哉!」傷其聞之晚也。
曽子が魚を食べて、食べ残しが出た。曽子「余りは水出しにしよう。」弟子「水出しだと当たることがありますよ。煮た方がいいでしょう。」曽子が泣いて言った。「下らぬ事を考えたものだ。」当たるという事実を聞くのが遅かったからである。
金谷本では、かつて水出しを親に出したのを後悔して泣いたとする。
法行2
曾子曰:「無內人之疏而外人之親,無身不善而怨人,無刑已至而呼天。內人之疏而外人之親,不亦反乎!身不善而怨人,不亦遠乎!刑已至而呼天,不亦晚乎!《詩》曰:『涓涓源水,不雝不塞。轂已破碎,乃大其輻。事已敗矣,乃重太息。』其云益乎!」
曽子「身内を粗末にしてよその者と親しくするな。よくないことばかりしているのに人を怨むな。処刑される時になって天の助けを呼ぶな。
身内を粗末にしてよその者と親しめば、人の道に背くというものだ。よくないことばかりしているのに人を怨むのは、道理から離れすぎているというものだ。処刑されるときになって天の助けを呼ぶのは、もう遅すぎるというものだ。
古詩に曰く、”チョロチョロと流れる水源は、か細い故に塞がれない。車軸が砕けたその時に、慌てて輻(や。スポーク)を丈夫にしても、事はすでに取り返しが付かず、あーあとため息をつくしかない”と。この歌がはっきりと言っているではないか。」
「中国哲学書電子化計画」で「己」となっているが文意が通じないので「已」に改めた。
法行3
曾子病,曾元持足,曾子曰:「元!志之!吾語汝。夫魚鱉黿鼉猶以淵為淺而堀其中,鷹鳶猶以山為卑而增巢其上,及其得也必以餌。故君子能無以利害義,則恥辱亦無由至矣。」
曽子が病気になり、息子の曽元が足元で看病していた。
曽子「元、よく覚えておけ。これから話をする。魚やスッポンやウミガメやワニは、深い淵に住んでもなお浅いと思って穴を掘る。タカやトンビは高い山に住んでもなお低いと思ってより高いところに巣を構える。こうやって用心してもなお、必ずエサに釣られてしまう。だから君子たる者、利益に釣られて正義を忘れないように習慣づけて、やっと辱めから逃れることが出来るのだ。」
法行5
曾子曰:「同游而不見愛者,吾必不仁也;交而不見敬者,吾必不長也;臨財而不見信者,吾必不信也。三者在身曷怨人!怨人者窮,怨天者無識。失之已而反諸人,豈不亦迂哉!」
曽子「旅を共にして仲間外れになるのは、必ず自分に仁がないからだ。付き合って敬われないのは、必ず自分に長所がないからだ。財産を見せびらかしても信用されないのは、必ず自分に信用がないからだ。
この三つは自分事であり、人を怨むことは出来ない。人を怨む者は追い詰められ、天を怨む者は道理が見えない。何事もしくじってから人のせいにするのは、見当違いもいいところだ。」
「中国哲学書電子化計画」で「己」となっているが文意が通じないので「已」に改めた。
「必」に”かならず”の語義は、曽子の時代に存在しない。
参考文献:金谷治訳注『荀子』(上・下)岩波文庫
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